映画日記 01
共喰い
青山真治監督
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青山真治監督の『共喰い』を見ながら思い出したこと。昭和64年。この年はわずか7日間で終わり、私は新宿の高層ビルから街を見下ろしていた。バブル経済に浮かれる東京、日本一の歓楽街を誇る不夜城新宿。その夜、全てのネオンサインは消灯され、東京が真っ黒に広がる森だということに気が付いた。永遠の繁栄を無心する東京の夜景は、小さなブラックホールのように光を吸収して点在する苑(公園として取り残された森)とのコントラストとして、そこに存在していたはずなのだ。皇居さえも認識できない一面の闇。1989年1月7日、ひとつの時代の終焉を告げる陰鬱な弔いの儀式。
前作『東京公園』で、富永(榮倉奈々)は指先を使って「ぐるぐる」っと螺旋を描いて見せる。光司(三浦春馬)のカメラは、依頼人の妻(井川遥)が移動する東京の公園を追うのだが、その移動の軌跡をなぞる富永のしぐさは、記憶の渦に取り込まれて動きが取れなくなっている彼らひとりひとりが、その円環から抜け出す未来をも示唆しているのだ。そして『共喰い』も、別の角度からその円環について語られる。
*
1988年(昭和63年)の夏、下関のとある河口の街が『共喰い』の舞台だ。潮が満ち川の水かさが増す。そしてまた静かに潮は引く。川には人の生活とともに生活排水が流れ込む。17歳の遠馬(菅田将暉)と千種(木下美咲)は、赤茶けた錆が目立つ橋の上からその川面を眺め、言葉を交わす。土地は「昭和」という戦後の記憶の一部にあり、共同体はその記憶の中に閉じられている。外部への道はすぐそこにあるのだが、内部へと引き込み渦巻く記憶の土地から離脱するには、途方もないエネルギーが必要なのだ。それは血縁であり地縁であり、互いに縛り合う歴史や制度でもあろう。遠馬は熱をおびた肉体を抱え「父」(光石研)の呪われた血の円環を恐れている。父の名は奇しくも円(まどか)という。
川向こうの地では、空襲で右手を失った遠馬の母、仁子が(田中裕子)義手で魚を捌き、遠馬と円と離れひとりで暮らしている。彼らとともに生活するのは水商売の琴子(篠原友希子)だ。遠馬と円、そして遠馬と仁子の関係を通じ、あるいは閉じた共同体の噂話を通して、仁子はその円環の内に置かれた琴子の身を案じている。一度その円環の中に入れば、その歪みさえも、安定した関係として成り立ってしまっているのだ。円の暴力を受け入れてきた琴子は、ある日お腹の子とともに、その渦からの離脱を決意する。彼女の裏切りは円の知るところとなり、円はその円環に全てを引き戻そうと荒れ狂い、息子の彼女である千種をも彼の欲望の渦に巻き込んでしまう。
「うちが最初に、なんとかしとくべきじゃったわ」 円の妻であり遠馬の母である仁子は、激しい嵐の中でその円環にけりをつける。『共喰い』の原作者田中慎弥氏が紡ぐ下関の言葉は過不足なく語られ、正直で潔い。青山監督は、交わされるの言葉のひとつひとつを丁寧に映画に配し、感情の拡散を押さえた距離感の近いショットで、彼らのいびつな日常を描写してゆく。圧巻は、映画の最後に付け加えられた、原作にはない事件から半年後のエピソードだ。琴子そして千種。女達の凱歌を痛快に着地させた、まさに青山映画の美学がここに結実する。
昭和64年の夜、20代始めの私が見た暗い記憶の森の情景は、この映画が描いた本州末端の下関にまで繋がっていたし、それは確実に日本全土で共有されていた一連の感覚だと思われる。昭和63年の年末、昭和天皇の容体が繰り返し報道された。そして拘置所の仁子が「あのひと」の戦争責任を暗に示した言葉は、私たち皆が、未だにその濃密な記憶の渦の中に生きているという、あらがい難い事実を物語っている。もちろん昭和が終わり四半世紀を経過した「今」でさえも。まさに...。
[10/19/2013]
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リアル~完全なる首長竜の日~
黒沢清監督
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劇場映画としては『トウキョウソナタ』から5年ぶりになる黒沢清監督の『リアル~完全なる首長竜の日~』は、真っすぐで優しい映画だった。
ある日突然昏睡状態に陥った自分の大切なパートナーに対面し、自分たちが共有している(とそれまで信じてきた?)時間の儚さに初めて気付くのだろうか。「意識」に直接働きかけるセンシングという先端医療装置。その装置を通じて、浩市と淳美の「意識」は絡み合いながら霧の向こう側にある「下意識」の源流へと遡る。それが「首長竜」にまつわる秘密の物語であり、15年前の出来事との和解へ向かう旅である。
この物語に於ける15年前を敢えて時系列に並べ直してみる。浩市(佐藤健)はリゾート開発の現場を統括する父親とともに東京からこの離島(飛古根島)に越してくる。浩市はそこで淳美(綾瀬はるか)と出会うことになる。淳美の父親は誘致反対派のリーダー的存在だったようだ。大人どうしの対立(それはおそらくゼネコン対島民という単純なそれではなく、島民のどうしの間でも軋轢を起こしていただろうという想像はつく)の空気は子どもたちの日常にも影を落とす。だが、小学生の浩市と淳美はお互いに魅かれ合い、そして二人はある出来事からひとつの秘密を共有する。
映画を見ながらふと思いだしたのは、1987年に制定された法律(通称リゾート法)のことである。当時の中曽根内閣のさまざまな思惑の中から地方経済を振興するという名目で設けられ、そしてバブル経済の崩壊とともに地方に大きな爪痕を残した。
この件にはあまり深入りしないが、映画の中の飛古根島でも廃虚と化したリゾート施設が物語の舞台となっている。「下意識」の中の浩市は「首長竜のスケッチ」を求め緑の草原に着地する。懐かしい飛古根島の風景。しかしそのすぐ足下には半分地面に埋もれた赤いドラム缶も見える。浩市は瓦礫を片づける淳美の父親と再会し、そこで15年の歳月がもたらした飛古根島の現状を目の当たりにする...。だが、当時ゼネコン側の意思として現場を取り仕切りリゾート施設の建設に奔走した浩市の父親も、その後、過労死で命を失ったことが浩市の口から明らかになる。「いったい誰が責任をとるのか?」淳美の父親は呆然と問いかける。無論、いかなる個人もその責任をひとりで抱えることはできないだろう。
東京で偶然再会した浩市と淳美は、15年の歳月を埋めるべく共に暮らし始める。漫画家としての日常に忙殺され不慮の事故で意識を失ったパートナーに、ようやく繋がった「意識」の中で訴えかける。「まだ、これからのことも話し合っていないのに...」。私たちは誰も責任を負うことができない「想定外」の矛盾に満ちた世界に生きている。しかし、誰しもがその責任を個人として引き受け、未来に向かって希望を語り合う権利があるはずなのだ。眩い光が差し込む病院の一室から。
[07/05/2013]
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愛、アムール
ミヒャエル・ハネケ監督
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まさに「完璧な」映画という賛辞が相応しい、2012年のパルムドール受賞作『愛、アムール』。80歳を超える老夫婦が人生の最後に直面する「愛」という試練についての物語である。
「誰かいますか?」という声とともに、扉の「鍵」はこじ開けられる。男たちは、おそらく想像通りだったであろうその状況を確認すると、硬直した空気(そしてやはり死臭だろうか)を解き放つため手際よく窓を開け、テープで目張りされた部屋の扉を開放する。ベッド上の空虚な肉体には旅立ちの装いが施され、明るい光が差し込む枕元には色とりどりの花がちりばめられている。これが映画の冒頭であり物語の結末である。
愛弟子(アレクサンドル・タロー)の演奏会から戻ったアンヌとジョルジュは、アパルトマンの「鍵」が壊されていることに気付く。翌朝、アンヌに異変が起こる。動きを忘失したかのような彼女の頬に、「水」を含ませたタオルをあてがうジョルジュ。水は蛇口から流れたままだ。
「鍵」そして「水」は物語を繋ぐ。例えばジョルジュの悪夢の中で、あるいはアンヌの介護(入浴、水差しから口に運ばれる水、失禁)の中で、「水」はその状況の困難さへの道筋を描写する。穏やかなだった二人の共同生活は、いつしか心身共に極度の緊張を伴うものとなる。ジョルジュは娘の突然の訪問に動揺し、惨めに老いる妻アンヌの姿、そして終局に近づく老夫婦の関係を隠蔽するかのように、アンヌの部屋に「鍵」を掛けてしまうのだ。
口論をする父と娘。背後の書棚にさりげなく置かれた「鳩」の絵。部屋の調度として掛けられたロマン主義風の風景画(こちらは長回しで写される)と比べ、明らかに素人の手によると思われるぎこちない動きの描写。稚拙だが親密な絵ではある。そういえば物語の終盤にかけてアパルトマンに「鳩」が二回迷い込むシーンがある。一度目は闖入者を窓の外に追い払うだけのジョルジュだが、二度目の来訪ーそれは彼が最後の仕事をやり遂げた後のことだーでは、初めに帰路を断ち、そして布を覆い被せるようにしてその「鳩」を捕まえる。彼は布の上から抱きかかえるようにして彼女を優しく愛撫する。
もう一度この物語は「水」に戻る。いつものように食器を洗うアンヌ。そして彼女に促されるようにジョルジュはアンヌと共にこの家をあとにする。セ・ラヴィ。
[06/14/2013]
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ホーリー・モーターズ
レオス・カラックス監督
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映画が誕生する目前の連続写真は、「走る馬」を並列した複数のカメラで撮影したエドワード・マイブリッジのそれが有名だ。一方、この映画の中で何度か参照されるエティエンヌ=ジュール・マレー(1830~1904)の発明は、一台のカメラ(ひとつの視点)から運動する被写体を撮影する「写真銃」という装置である。10秒にも満たない短い映像の中で人間の肉体が行為する一瞬の輝き。おそらく、マイブリッジとマレイの映画前史に於けるその視点の差異こそが映画の決定的な分岐点であり、マレイのクロノフォトグラフはリュミエール兄弟のシネマトグラフに直結し、映画の原点となるだろう。
レオス・カラックス監督の13年ぶりの新作はある意味でロードムービーだ。
それはいつもの朝の風景のようだ。オスカー(ドニ・ラヴァン)は家族に見送られ、珍妙に長く引き伸ばされたリムジンに乗り込む。だが、その後の彼の一日は、この白い運転手付きの車と架空の時空間との間の旅として描かれることになる。架空の時空間は、どうやら映画のシーンのようであり、その架空の時空に架空の身体を持ち込むことがオスカーの仕事のように見える。ひとつの「仕事/行為」を完結してはリムジンの中で自分自身(?)の身体に戻り、また自らが特殊メイクを施し新たな人格「役/行為」となり次の時空に運ばれていく、その繰り返しである。
オスカーが身体を持ち込むそれぞれの舞台は、ある意味で映画のクリシェとも言える、例えば残忍な殺人者や、死期に面した大富豪のシーンであったり、あるいはミュージカル仕立ての恋愛物語や、車中で会話する父と娘のシーンであったりする。しかしながら、全く別の人格を形成しそれぞれの「行為」を忠実に演じるオスカーの、その強靭な身体性は圧巻である。「行為」の美しさ。それがオスカーをこの仕事に駆り立てている原動力なのだが、それゆえに肉体的にも精神的にも過度に疲労を重ねているように見える。リムジンの運転手であり彼の仕事のマネージメントをするセリーヌ(エディット・スコブ)に、「森」の仕事の予定を尋ねる。
映画に於けるカメラとは何だろうか。オスカーは彼のボスと思しき痣のある男(ミシェル・ピコリ)に「かつて人の体より大きかったカメラは今では目に見えないほど小さくなってしまった」と語る。痣のある男は「美は見る人の瞳の中だけにある」と言う。オスカーの「行為する」架空の時空間にはカメラの気配が全く無い。その違和感は、映画の中の映画という設定の説明が一切なく物語が進行するところにある。そこが非現実の映画の舞台であるという保証がなく、どこまでが現実でどこまでが非現実の映画のシーンなのかの「境界」が示されていないのだ。しかしあらためて言うまでもなく、そもそも映画というもの自体すべては虚構である。つまりこれは大いなる反転の映画であると言えよう。例えば私たちの実人生の中で、どこまでが自分の演じる自分でどこまでが自分自身なのか、その境界はしばしば反転するだろう。身体を伴わないカメラ/瞳(視点)。虚構。イメージ。
車の外は夜のパリの街並みが映る。10個の人格を演じきり疲弊したオスカー見て、セリーヌは「森」という仕事に送り届ける。彼女もまた巨大な倉庫のような「HOLY MOTORS」に白いリムジンを戻し、長い一日を終える。同じように一日の仕事を終えた白いリムジンが次々とその場所に帰ってくる。セリーヌはほっとした表情を見せ、そして自らの顔を覆い隠すように緑色の「仮面」を装着する。「仮面」を外すのではなく。ここでも大いなる反転。そして誰もいなくなったその駐車場...。
そもそもカラックス自身が出演して冒頭で開いた劇場への扉の、その行き着く先はどこなのだろう。情報化された「私たち」の世界は多くの映像に溢れ、多くの視線で成り立っている。SNSには多くの映像が溢れその情報の総体が、身体性が欠如した情報の総体が「私たち」の眼差しだと理解している。それはマイブリッジの連続写真のようでもある。映画の最後にさしかかる時、視線の先に飛び込んできた鳩を避け、急ブレーキを踏むセリーヌを思いだしておこう。映画前史19世紀後半、エティエンヌ=ジュール・マレーは飛ぶ鳥の連続写真を撮った。写真銃という一台のカメラで、ひとつの視点から、そして一枚の印画紙にその運動イメージを収めた。マレーからカラックス、そしてカラックスからマレーへの旅。
[04/23/2013]
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ザ・フューチャー
ミランダ・ジュライ監督
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35歳のソフィー、そしてジェイソン。大怪我をした猫パウパウをシェルターから引き取ることを決めたふたりだが、初めは6ヶ月と聞いていたパウパウの余命は5年だと知り、5年という歳月の重さに狼狽えるのだった。「5年後には40歳。40歳と言えば50歳も同然だ」とジェイソンは言う。ふたりはパウパウの傷が癒え彼を迎えに行くまでの30日間を、彼らの人生の最後の猶予期間と決め、それぞれの仕事(幼児向けのダンス教室のインストラクター、自宅でヘッドセットを付けての電話サポート)を辞し、インターネットを解約、「自分らしい」本当の生き方を探そうとする。
脚本・監督、主演のミランダ・ジュライは小説家でもありアーティストでもある。日本では2008年の横浜トリエンナーレで『The Hallway』というテキストを使った印象的なインスタレーションを行っている。人がひとり通れる通路の両側に手書きの言葉が記されたボードを配し、私たちは数歩ごとにそれを立ち止まっては読み進んでいくように仕向けられる。その言葉は、例えば「歩いていくうちにあなたは残りの人生、この通路をずっと歩いていくのだということに気がつきます。」あるいは「以前よりも少し考えなくなっているような気がします。そもそもなぜ考えたりしなきゃいけないのでしょう?判断することなんて何もないはずです。ただ前に歩いていけばいいのです。」とか。または「時には朝目覚め自由にみなぎり希望に満ちあふれた素晴らしい気分のときがあります。でもそんな日はしばらくきていないように思います。もしかしたら一度もなかったかも。」そして「あなたはこう誓います:インターネットにかける時間を減らす。一日30分は運動をする。愛する人たちと難しいことを語り合う。自分が一度考えたことに後知恵を働かせるのをやめる。」...とか(全文は追記に残しておきます)。
ミランダ・ジュライが織りなすアート作品のコンセプトも、あるいは映画でも小説であっても、その根底に流れているのは、私たち自身の人生に対する途方もない不器用さや孤独についてであり、あられもない弱さなのだろうと思う。ジェイソンは慈善活動での出会いを通して人生の大切なことをつかみかけているのに対して、ソフィーは自ら立てた「30日間で30のダンスを作る」という目標に早くも挫折、「自分らしさ」を強いることなく受け入れてくれる男のもとへと逃避する。ジェイソンは時間を止めてソフィーが自らのもとを去っていくのを阻止しようとするのだが、結局彼が止められるのは自らが所有可能な範囲の時間だけであって、周りのすべての時間は彼の意思とは無関係に流れていってしまうのだ。ソフィーの時間も、そして、パウパウを引き取りに行く予定の日も...。
ミランダ・ジュライの映画が「通常」の映画と何が違うのかとずっと考えているのだけれど、結局、それは私たちの視線の先にいつもミランダ自身がいるということではないだろうか。彼女は私たちに「考えること」を強いる訳だけれど、それを社会や時代の抱える「問題」として私たちと同じ側から客観視するのではなく、私たち同様その「答え」を持ち合わせていない彼女自身の姿を、生身の人間として私たちの前に晒しているのだ。それがおそらく彼女のアーティストとしてのスタンスであり、彼女の映画の持つ特異な魅力でもあるのだと思う。
(以下のテキストはYouTubeに投稿されたビデオから書き取りました。)
- あなたはまず笑います。そもそもこれがいつのまに始まってしまったのかもわかりません。
- 友だちに何か言おうと振り返りますが、もう背後には誰もいなくなっています。
- 仕方がないので通路をそのまま歩き続けます。
- 歩いていくうちにあなたは残りの人生、この通路をずっと歩いていくのだということに気がつきます。
- わくわくする気もしますが、つまらない気もします。歩き続けます。
- 引き返すには手遅れですが、出口もまだずっとさきのように思えます。あなたは急に母親が恋しくなり、最後に会った時にもっと優しくすれば良かったと考えます。
- 子供の頃にあなたが夢見た多くの物事は実際に起きやしません。たとえばあなたが総理大臣になることはまず無いでしょう。だってこの通路からどうやって国を統治するというのです。それからあなたは月へも行けないし、有名にもなれません。
- 一瞬こう考えます:もしかするとこの通路は一種のメタファーで、これは自分の人生じゃないんだ!と。でもすぐにその考えは単なる自分だましでしかないと実感します。
- 上を見上げると天井には付せんがついていて、そこに「幸」という名前が書かれています。あなたの右にはいやらしい絵とカップがあります。これはいったいどういう意味があるのでしょう? あなたはこれが自分の死を意味するのではと思います。でもそれは考えすぎだと思い直します。これはただのカップと絵で他に何の意味もないのです。
- それに「幸」は名前じゃなかったのかもしれません。もしかしたらただの言葉だったのかも。
- 「幸」。
- (橙色の紙、赤い紙、水色の紙、黄色い紙、黄緑色の紙が続く)
- 通路も悪くありません。寂しいけれど、安全です。
- 時間が過ぎて行きます。
- 何時間も。
- 何か月も。
- 何年も。
- あなたは前よりも歳をとって見えます。
- 以前よりも少し考えなくなっているような気がします。そもそもなぜ考えたりしなきゃいけないのでしょう?判断することなんて何もないはずです。ただ前に歩いていけばいいのです。
- おや、ちょっと早とちりしたようです。
- (黒い紙に白字で)人生最大の決断です。これにすべてがかかっています。この選択には正解と不正解があります。五十歩百歩ではありません。これがすべてです。あなたの動物の勘を使って判断して下さい。間違いのもとなので知的推理に基づく判断をしようとしてもムダです。さあ、行って下さい。 ←こっちへ。または あっちへ。→
- さあ、正しい選択ができましたか?そんなの一生わかりっこありません。でも悩み続けることはできますね。「あのときあっちに行っていればよかったのかも」と。
- 何十年かの歳月が経ちます。</li><li>時には朝目覚め、自由にみなぎり希望に満ちあふれた素晴らしい気分のときがあります。でもそんな日はしばらくきていないように思います。もしかしたら一度もなかったかも。
- 車。
- 食べ物。
- 猫。
- めくるめく犯罪。
- 全部。
- あ、見てください!またあのカップとわいせつな絵ではありませんか。もう古くからの友のようで、愛称をつけ、髪をくしゃくしゃしたいですね。カップはカッピィ、わいせつな絵はサムと呼ぶことにします。それでは幸の愛称は何に? ああ、でもそこにはもう幸はいません。誰かとどこかへ行ってしまったのでしょう。もっと面白い誰かと。ええい、幸のことなんか忘れましょう。あなたはカッピィとサムがいるのですから。幸なんてくそ食らえです。
- (黒い紙)
- 森。
- 星。
- 月のない長い闇夜。
- そして、突然:
- (黄色い紙)さあおうちへ帰りなさい。
- あなたは目に涙さえ溜めて笑います。だってこの通路が自分の家になるのだと本当に信じていたのですから。今考えたらおかしなことですが、でも事実、あなたはそう考えたのです。
- 人生が通路で終わらなかったことに有頂天になり、あなたは思わず誓いをたてることにします。ここから出たら、別の生き方をしていくのです。
- あなたはこう誓います:インターネットにかける時間を減らす。一日30分は運動をする。愛する人たちと難しいことを語り合う。自分が一度考えたことに後知恵を働かせるのをやめる。
- そしてあなたは一瞬自分だけのことじゃない何かにも誓いをたてたくなります。たとえばスーダンや環境について。でもここでムリは禁物。一歩づつ進めましょう。
- ここから出て行くことがわかったあなたは、何だか哀しくさえなります。この通路はいつまでもあなたの心の中に在り続けるでしょう。急な哀愁に襲われ、あなたは一瞬この通路にとどまることを考えますが、結局すぐにうんざりします。そしていよいよあなたはここを去ります。
- あなたはここからいなくなります。
- あなたはここから立ち去ります。
- 本当に、立ち去ります。
[02/12/2013]
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壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び
イマード・ブルナート/ガイ・ダビディ監督
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パレスチナのビリン村にイスラエルの分離壁が立てられ、自分たちの土地を奪われた彼らは非暴力のデモに訴えます。一方武装したイスラエル軍は容赦なく発砲し、子どもたちまで逮捕し連行します。オリーブを育てるイマードは四男ジブリールの誕生を機にビデオカメラを手にするのだけれども、日々の生活の延長として家族と彼らの闘争を記録することを宿命と感じるのです。その映像は生々しく(こんなことを言って良いのかわからないけれど)信じられないぐらい「美しい」。彼らは決してナショナリストでは無く、自分たちの政治家に彼らの闘争を利用されるのには反対なのです。自分たちの土地と家族を守るということはどういうことなのか。
この映画はビリン村のパレスチナ人のイマード・ブルナートが撮影、イスラエル人のガイ・ダビディが監督をしています。パレスチナとイスラエルの対立は単純な構図ではありません。例えばイマードが撮影中に不慮の事故をおった時、運ばれたのはテレアビブ(イスラエル)の病院です。おそらくパレスチナの小さな病院では命は助からなかったと本人も振り返っています。また不当に建てられた分離壁はイスラエルの裁判所の決定を経て、よりイスラエル人居住地区に近い場所に移されることになりました。しかしながら、非暴力の抵抗下の5年間で、イスラエル兵と入植者によってイマードの5台のビデオカメラが破壊され、オリーブの木は報復として焼かれ、フィールというひとりの友人を亡くしました。5年というのは決して短い時間ではありません。イマードの息子ジブリールは5歳の誕生日を迎えるのです。
[12/24/2012]
ライク・サムワン・イン・ラブ
アッバス・キアロスタミ監督
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『友だちのうちはどこ?』『桜桃の味』など過去にアッバス・キアロスタミのいくつかの映画を見てきたが、イランではアハマディネジャド政権になって表現活動が制約を受け海外で映画を撮るようになったとも聞く。ともかくも久しぶりに再会したキアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』はとても素敵な作品だった。元大学教授のタカシ、地方出身の大学生の明子、自動車整備工場を営むノリアキ。3人それぞれの人生がわずか1日足らずの間に交錯する。
デートクラブの仕事で横浜に向かうタクシーの中で、明子は彼女に会いに東京に出てきた祖母の留守電を再生する。街の雑踏。ネオンの光。そして駅のロータリーで彼女をひたすら待ち続ける祖母を窓越しに見つめ涙をこぼす。彼女は髪を束ね赤いルージュをひく。タクシーのラジオから流れる曲。
タカシは亡き妻に似た明子が来るのを待っていた。いかにも元大学教授らしい調度の部屋は幹線道路に面していて、かすかに窓の外の音が聞こえる。ランプの黄色い光。煉瓦の壁。壁に掛かる「教鵡」。ひとしきり営業トークをした明子はさっさと自らの仕事を終えるべくベッドに向かう。テーブルの上のキャンドルとワイン、桜エビのスープ。タカシは明子とゆっくりと話をして過ごしたかったようだ。エラ・フィッツジェラルドの「ライク・サムワン・イン・ラブ」。疲れ切って寝入る彼女のためにアンプのボリュームを落とし電話機の線を抜く。
翌朝、社会学の試験を受ける明子をタカシは車で送り届ける。タカシはこの大学で教鞭をとっていたらしい。ノリアキの明子に対する過度な干渉を車の中から心配そうに見つめるタカシ。ノリアキはポケットからタバコを一本取り出し、そしておもむろにタカシの車に近づき窓越しにライターを求める。ここから物語は急激に進行する。
「ライク・サムワン・イン・ラブ」は、「見ること」についての物語である。私たちの視線は明子に向かい、タカシに、そしてノリアキに注がれる。しかし私たちはそこに「見える」もの以外は決して見ることはできない。彼らはそれぞれの人生を生き、その確かな姿は互いの視線の中でしか存在しない。例えばタカシの隣人が小さな窓から彼の行動をうかがうように。しかしタカシはその隣人の視線の外部で生きているのだ。逆に、相手の「見えない」部分を含めてその存在を信じ受け入れること、それが他の誰かを愛するということではなかろうか。明子の祖母が携帯のつながらない彼女を待ち続けるように。また、タカシが明子に注ぐ眼差しのように。
イランの地よりも土ぼこりにまみれた現代の日本に「生きる」ということ。それは意外にも美しい物語なのであった。
[09/26/2012]
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ファウスト
アレクサンドル・ソクーロフ監督
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「魂」はどこにあるのか。ファウストは死体を解剖しその答えを探している。魂の抜けた動かぬ肉体から臓腑が崩れ落ちる。ファウストは「魂の空虚」に呵まれており、しかもより現実的な問題として研究費が底をついた。診療所(それは精神病院にも見えなくない)を営む父親に金の無心をするがすげなく断られ、「悪魔」と噂される高利貸マウリツィウスの所へ向かう。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)が一生をかけた大作『ファウスト』では、ファウスト博士は悪魔メフィストと「契約」をし、永遠の若さ、そして人生への欲望と享楽を手にする。ソクーロフ監督(1951~)はその原作のモチーフを随所にちりばめながらも、現代的でスピード感溢れたソクーロフ自身の『ファウスト』を展開する。「知らないことを教えてやろう」とマウリツィウスに諭され、ファウストは原作のようには若い肉体を与えられぬまま町に出て、女達の集う洗濯場で若く美しいマルガレーテを見初める。
ソクーロフの『ファウスト』は、『モレク神』(ヒトラー)、『牡牛座 レーニンの肖像』レーニン、『太陽』(昭和天皇)に続く「権力者」をテーマにしたシリーズの4作目だ。20世紀の「権力者」を扱った前3作とは違い、19世紀の文豪(自然科学者でもあった)ゲーテの長編戯曲に於ける創作上の人物ファウスト博士が今回の主人公だ。しかしながらその原作第2部で描かれているのはまさに「権力」についてであり、強大な支配欲と所有欲を持つに至ったファウストの「理想の国家」の設立についてなのだ。だからこの映画をマルガレーテへの愛に目覚めたファウストの理性の解放と思ってしまうと、独特の映像表現の中にあるグロテスクさの意味を見失うことになる。純真無垢を纏ったマルガレーテの顔にハレーションを起こすほどの強烈なライトが当たり、それが極限に達するとその美しさの縁に醜さが映り込む。それはファウスト自身の鏡像でもあろう。悪魔との契約をもなし崩しにする程の強い欲望の「魂」が生まれる瞬間に映画は幕を閉じる。
映画は19世紀初頭のドイツの町を模した舞台で展開される。その時代はちょうど「ドイツ」という統一国家成立に向けたナショナリズムが蜂起した時代でもある。それはドイツロマン主義と切り離して考えることはできない。無論ロマン主義もナショナリズムもそれ自体が問題を孕んでいる訳ではない。しかし一方でそれがマグマのような過剰なエネルギーを抱えた運動であることも間違いないのだ。そのエネルギーが権力や支配欲、所有欲と結びついたとき、次に私たちが見るものは既に明らかであろう。ソクーロフの力技。
[07/08/2012]
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ニーチェの馬
タル・ベーラ監督
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フリードリヒ・ニーチェについて、トリノの広場で御者に鞭打たれる馬に駆け寄り泣き崩れ昏倒したという有名な逸話がある。巷はにわかニーチェブームでもあり、この話はあまりに人間的なニーチェのエピソードとして取り上げられはするものの、その意味するところを本気で考えようとしたことはなかったかもしれない。ニーチェは何故、もしくは何に対して泣き崩れたのか。
逆巻く暴風に耐え家路をたどる年老いた御者とその馬の姿。ますます強まる風のなか、御者は娘とともに馬の鞍を解き、厩舎の扉を開け、荷車を片付け馬を中に入れる。石積みの粗末な家屋。片手が不自由な御者の着替えを娘が手伝う。鍋に水を汲みジャガイモを茹でる。いったいこの場所で何が起こっているのか、見るものには全く知らされない。言葉は交わされず、私たちはただそこで「見ること」だけが強いられる。もはやこれは無声映画なのではと思いかけた頃に、娘から「食事よ」と声が発せられる。
ニーチェの「神の死」はもちろんキリスト教に於ける神の概念の終焉だ。父と娘の生活にすでに信仰の影は無い。食卓に祈りも無い。しかし彼らの日常、労働としての日常それ自体がキリスト教的である。井戸からバケツに2杯の水を汲み、竃に火をくべる。服を着替える。全てが抽象化され象徴化されたた日常の反復だが、その日常が少しづつほころび始めていることにも気付かされる。画面にはしばしば西洋絵画の引用とみられるカットが挟み込まれる。もちろん西洋絵画というのはキリスト教絵画のことであり、どこかで見たことがあるその定型/類型を映画の中で引用しつつもそこから離れていく。あたかも労働の一部であるようなジャガイモひとつの夕食が終われば、椅子に座りただ窓の外を眺め続ける。外は相変わらず暴力的で破壊的な強風が吹きつけている。
非キリスト教世界に住む自分たちには解りにくいことだが、「神の死」というのは「神」が創造した世界の「死」を意味し、つまり神が「光あれ」と言って光と闇を分けた天地創造の一日目、それ以前の暗闇の世界に戻ることである。だから彼らのもとのランタンもその火種が尽きたのではなく、私たちの世界がとうとう光を失ったのだと考えるべきなのだろう。簡潔な作りの映画だけに解釈には幅があるだろうが、個人的な意見としてはタル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』は「見ること」についての映画ではないかと思うのだ。光が無ければ何も見ることができない。私たちは私たちの誰もができるはずの「見ること」を手放してはいないか。ニーチェ...。電光と雷鳴が到達するには時を要する。その結果を知ってからでは全ては遅すぎる。
[06/08/2012]
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クリント・イーストウッド監督
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前作『ヒア アフター』も去年の今頃だっただろうか。映画には東南アジアの街が津波に襲われるシーンがあり、震災を配慮してか公開後まもなく中止された。あれから1年が経とうとしている...。
『J・エドガー』はアメリカ連邦調査局(FBI)の初代長官で、50年にわたり権力の座に君臨し続けて来たジョン・エドガー・フーヴァー(1895~1972)を描いた映画だ。国家の「正義」という大義のもとに20世紀を生きたJ・エドガーはどのような人間なのか。
母親に溺愛され常に「強く」あることを求められたJ・エドガーは20代にして強大な権力を手中におさめる。彼は組織の粛正をはかり、犯罪捜査に於ける科学的な手法と徹底した情報管理の重要性に先鞭をつける。その一方で、自らと組織の権限を「したたかさ」を持って拡大させ、その地位と権力を守るために諜報活動を行い「極秘ファイル」を盾に取る、明らかに「正義」と相反するネガティブな側面をも持っていた。
この映画でクリント・イーストウッド監督は、J・エドガーを「強さ」と「弱さ」の両面から人間的に描いているのが印象的だ。FBIでの長官としての彼の姿とともに母親との従属関係を手放せなかった彼自身を描いた。母親の死に際し母のブルーのワンピースを纏い母のネックレスを引きちぎった彼の姿、そして彼の腹心のクライド・トルソンを母親の存在から透かすように描くことで、J・エドガーという男の葛藤を表現している。
様々な点で問題を抱えた人間J・エドガーを考える上で大事なことは、FBI長官としての衰えを見せる彼を前にトルソンはその死に至るまで彼の元を離れなかったという紛れもない事実であり、また個人秘書としてつかえたヘレン・ギャンディもトルソンと同様に生涯彼を裏切ることはなかったという事実自体にあるのではないだろうか。前作『ヒア アフター』にも言えるのだけれども、この撮り方が人間が「生きる」という平凡かつ繊細な事象について無条件で肯定しているイーストウッドの映画に通底する「優しさ」なのだと思う。
[02/19/2012]
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果てなき路
モンテ・ヘルマン監督
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モンテ・ヘルマン監督(1932年~)の『果てなき路』(Road To Nowhere)。
新進気鋭の映画監督ミッチェル・ヘイヴンはノースカロライナの小さな町で起きたあるスキャンダルをもとに映画を撮り始める。事件の鍵を握る謎の女ヴェルマ役のキャスティングを進めるなか、彼はハリウッドでは無名な女優ローレルを「まさにヴェルマそのもの」と確信し主役に抜擢する。
この映画ではで2つの物語が入れ子状態になりさらに時間軸上を錯綜する。
映画作品としてミッチェルに撮られていく「事件」『Road To Nowhere』。
ヴェルマを演じるローレルというもうひとりの謎の女。
この複雑に入り組んだモンテ・ヘルマンの映画『果てなき路』で、主人公はあくまでも運命の女ローレルではなくヘルマン自身とも重なるミッチェル・ヘイヴンという若き映画監督なのだという「視点」は初めに確認はしておいた方が良いだろう。ややもするとヴェルマ/ローレルの謎と事件の真相探しに翻弄され、80歳の映画監督が描いたあられもない「愛」についての映画だという真実を見失ってしまうだろうからだ。運命の女への愛と映画への愛はミッチェル・ヘイヴン/モンテ・ヘルマンにとって「真実」として分ち難いものなのだ。それはエンドロールにもはっきりと示される。「これは真実の物語である」と。
ひとりの女優/女性をめぐる映画と現実との激しい往来が境界線を曖昧にしてゆく。ミッチェルはローレルという女性の不思議な魅力に捕われ、また映画としてこの事件を掘り進める程にヴェルマ/ローレルという曖昧な境界線にも魅了されていくことになる。しかしローレルには彼のミューズとは別の一面があり、ロンドンにいる男と携帯電話で何やら連絡を取り合ってもいる。そして、出演交渉の為にはるばるローマまで尋ねて来たミッチェルと会うために、ローレルはベッドの端に足を掛け、長いスカートの裾をたくし上げながら靴紐をきつく締め上げる。自分に降り注ぐ運命に立ち向かうための決意...。
『Road To Nowhere』の撮影が進むにつれ、ジャーナリストのナタリーが最初に描いた事件/物語のプロットは次第に形を変えてゆく。それには身分を隠してミッチェルに近づき制作の「現場」に潜入したブルーノの存在がある。彼は莫大な金が動いたこの事件の「男女の愛憎劇」という結末に疑念を抱き、保険調査員として事件の「真相」を探っているのだ。一方監督であるミッチェルが追い求めているのはあくまでもその「真相」とは違う次元の「映画としての真実」なのだ。ある時点までは同期をとってきた、すなわち「偽装」というミッチェルとブルーノ二人が追求する「真相/真実」の筋書きは、最後の最後に彼らにとって(そしてローレルにとっても)予想だにしなかった悲劇的で決定的な結末へと傾れ込むことになる。それは「身代わり」となったヴェルマとヴェルマを演じるローレルが同一人物であるというブルーノの結論による。
ローレルが以前に唯一出演した「B級ホラー映画」(ミッチェルはその映像を見てローレルを見初めるのだが)とはおそらく違う「現場」が繰り広げられる中で彼女は女優としての自分に目覚め、監督であるミッチェルに敬意を抱くようになる。そして彼女はますますミッチェルの作る「夢/映画」にのめり込んでゆくのだが、映画と人生の曖昧な境界線を生きるミッチェルに触れるにつれ、彼女の気持にも徐々に変化が起こる。すでに彼ら二人の日常の一部となっていたのであろうベッドの上で映画鑑賞。そしてヴィクトル・エリセの例の名作。廃屋に潜む負傷した脱走兵の靴紐を少女アナが代わりに結ぶシーンがあるのだが、おそらくこれがローレルのミッチェルに対する愛情の変化としてモンテ・ヘルマン監督に引用される重要なカットであろう。もちろんそれは冒頭での自身の靴紐を締め上げるローレルのシーンと重なる。ローレルは自分自身の人生をミッチェルと共に生き直すつもりになっていたのであろうか。それはまた同時に、翌日には射殺されるこの兵士の運命をミッチェルのそれとして暗示させるカットでもあるのだが。
ひどく複雑なパズルのピースにも見えるこの『果てなき路』だが、おそらく重要なのは映画とはことの真相を描くものではないというモンテ・ヘルマン監督の信念であろう。すべては『Road To Nowhere』に見たミッチェル・ヘイヴンのヴェルマをめぐる「真実」であり、モンテ・ヘルマンが『果てなき路』という映画で描いたミッチェルとローレルの「真実」である。収監されたミッチェルのもとを訪れたヴェルマ事件の原作者ナタリーの「映画の中のヴェルマはこの後自殺をするわね?」という問いへの彼の答えは、映画は「事実」でもなく「想像の産物」でもなく、ただただ「真実」なのだということではなかろうか。「真実」はひとりひとりの手でしか紡ぐことはできない。だからこそこの映画は「真実の物語」なのである。
[02/04/2012]
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灼熱の魂
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
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『灼熱の魂』(原題はIncendies)はレバノン出身のカナダ人劇作家ワジディ・ムアワッドの戯曲『焼け焦げる魂』をもとに監督のドゥニ・ヴィルヌーヴが脚本を書き映画化したものだ。ムアワッドは1968年生まれ。8才でレバノン内戦を逃れフランスへ亡命、その後カナダのケベック州に渡る。ヴィルヌーヴは1967年ケベック州生まれ。ケベックは17世紀にフランス人が入植し現在でもフランス語のみが公用語だ。
レバノンは南をイスラエルと隣接する中東の国家だ。20世紀初頭、石油の利権をめぐるフランスとイギリスの中東植民地戦略のなか、フランスは旧来のイスラム教の共同体地域(小レバノン)にシリアに属するキリスト教共同体地域を組み込む政治的な線引きをした。このことが後々の民族紛争の火種となるのだが、ともかくは1941年にキリスト教マロン派が多数派となる多宗派国家としてフランスから独立を果たすことになる。関係の複雑さ故に各宗派に政治権力配分がなされ、宗派宗教間の微妙な力関係のバランスでのみ成立するというのがレバノンという国家であった。
もちろん中東の戦後史にはユダヤ問題が絡んでくる。いつまでたっても映画の話に辿り着きそうもないので、イスラエル(ユダヤ人)とパレスチナ(つまりアラブ人/イスラム教)の問題が、レバノンに於けるイスラム教とキリスト教の対立に転化する過程が、この映画の成立する前提になっている故と断りを入れておこう。
1948年のイスラエル独立時点で、パレスチナに住む70~80万人のアラブ人がユダヤ人テロ組織による大量虐殺に追われる形で難民となった。1964年パレスチナ解放機構(PLO)がヨルダンに結成、1967年第3次中東戦争、1970年ヨルダンで内戦(PLO過激派のハイジャック事件に端を発する)でPLOの本部拠点がレバノン南部へ移転する。このパレスチナ難民の流入によりレバノンではアラブ人比率が増加。なんとか保っていたキリスト教/イスラム教の共同体バランスは崩れ、両者の対立の構図が明確になる。重火器を伴った双方の民兵組織の強化の背後には、中東の主導権を掌握したい米国・ロシア、それに対抗するアラブ側と大国の政治的思惑が絡む。そして1975年レバノンは内戦に...。
*
窓の外には乾いた台地が見える。乾いた風がナツメヤシの葉を揺らす。山間のこの土地で異教徒の子を宿すとはどういうことなのか。異教徒の恋人はその場で銃殺、出産後息子は引き離され、自らが生れ育った村/共同体から主人公ナワル・マルワンは追放される。彼女が求めた「人生」とは何なのか。そして彼女が引き受けた「人生」とは何なのか。中東の地から遠く離れたカナダ・ケベック州で、心を閉ざした母ナワル(1949年に生れ2009年に亡くなる設定になっている)の風変わりな遺言により、双子の姉弟ジャンヌとシモンにその「謎」が託される。「兄と父を捜し手紙を届けること」
内容は極めて破壊的で衝撃的だ。不条理に連鎖される報復の結末には目を覆いたくなる。しかし私たちがこの映画で求められているのは、目を見開いてこの「焼け焦げる魂」の物語の「証人」になることなのだ。個人の小さな物語はいつしか集団の大義に支配され、集団の記憶に書き換えられ、顔を持たない個人が同じく顔を持たない個人を蹂躙する。
2009年ナワルは娘ジャンヌと過ごすプールサイドで、それまでの壮絶な人生をも凌駕する衝撃的な真実を知る。それは彼女の魂を燃え尽きさせるに充分な衝撃であった。公証人のもと、ナワルは入院先のベッドで最後の力を振り絞るように遺言が語られたことが、ここでようやく明らかになる。そして、双子の姉弟ジャンヌとシモンの手によって、彼らの兄であり父でありナワルの生き別れた息子である男のもとに、その「手紙」は届けられる。彼女の「焼け焦げる魂」の手紙は、自らの「人生」の全てを受け入れた上での「赦し」であったことも、ここに明らかにされる。
Come on, come on
You think you drive me crazy
Come on, come on
You and whose army?
You and your cronies
Come on, come on
Holy roman empire
Come on if you think
You can take us all on
You and whose army?
You and your cronies
[01/09/2012]
◁映画リスト
ウインターズ・ボーン
デブラ・グラニック監督
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ああ、こういう映画があったかと素直に驚いた。カントリー・ミュージックはこの地に響く彼らの自身の魂の言葉だ。
ミズーリ州の山奥のオザーク地方はアイルランド系の移民が入植した村落だと聞く。この村で暮らす17歳のリー(ジェニファー・ローレンス)。父親は失踪し母親は精神的な病に犯され、小さな弟と妹との暮らしを彼女がひとりで支えるしかない。さらに追い打ちを掛けるように、父親が保釈金の担保として自宅を抵当に入れていたという事実を知らされる。期日までに父親が見つからなければ家も土地も没収されるという。しかし彼女にはすでに守るべき家族があるのだ。過酷すぎる運命の重圧が17歳の少女にのしかかる。
父親が麻薬の製造に関わっていたことは彼女自身も知っていた。もっともこの村落では誰もがそういう裏の世界の存在を知っていたし、敢て深入りしないことでお互いの均衡を保っている。ここは豊かな土地ではなく、慎ましやかな生活すら手にするのは容易ではない。彼女の父親とて欲して麻薬に関わってきたのではないのだろう。しかしアメリカの闇はこんな場所にこんな形で存在したというわけだ。彼女が父親を捜すのもすでに感傷的な思いでは無く、ただ自分の使命として自分の家族(もうそう言い切るしか無い)を守るために危険な場所に敢て足を踏み入れる。彼女のひたむきさは叔父、父親の兄弟であるティアドロップ(ジョン・ホークス)を動かす。だがこの物語で繰り広げられる大義は決して正義のためでも報復のためでもない。
この土地の厳しさ、そして彼女の強さと繊細さをこれほどまでに美しく描き出し、この過酷さの中にも希望を見出そうとする女性監督デブラ・グラニックの眼差しはまさに驚異的と言えよう。ここに来て9.11以降に真にアメリカという国を写し取ろうとする監督が現れたのは心強い限りだ。色々な意味でテレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』を超えていると思う。
[11/03/2011]
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パレルモ・シューティング
ヴィム・ヴェンダース監督
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私たちはデジタルの社会に生きていて、既にそのことは当然のこととして、例えば携帯電話やスマートフォンで写真を撮り、そのデジタルイメージはブログやその他ソーシャルメディアにアップロードされてゆく。しかし少し考えてみれば20年前は当たり前のように皆がフィルムカメラを持ち、写真と言えば真実の証のように(それはその時点で既に大きな「嘘」ではあるにしても)思っていた時代があったのだ。「写真を撮られる/魂を抜かれる」と感じることは、デジタルカメラの時代には無くなってしまったのだろうか。そもそもファインダーを覗かない撮影を「SHOOT/矢を放つ」と言うのだろうか。だが19世紀起源の写真は、もともと死と深く結びついたメディアであった。そしてヴィム・ヴェンダースの撮る /SHOOT『パレルモ・シューティング』は「死」についての物語なのだ。
デジタル化が写真の欲望を増幅する。目の前に特定の街など存在しないし、世界は時間も空間も全てがコントロール可能であり置き換え可能なのだ。フィン(カンピーノ)はアーティストとして、またモード写真などコマーシャルな仕事でも成功者として多忙な日々に追われているが、母の死をきっかけに自分自身の生と死について考え始めている。おそらく写真家としての自分についても。旧知のモデルの一言がきっかけで、彼女の撮影をシチリア島のパレルモに移し、撮影後にフィルムカメラ(マキナ67)を手にひとりでそのシチリア王国の古都を巡り始める。
フィンはその街でフラヴィア(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)と出会う。彼女は修復家で15世紀に描かれた『死の勝利』(それは時の権力者たちが「死」の放つ矢に打ち抜かれる壁画だ)の修復を手掛けている。壁画の修復は巨大な画面を小さなパーツに区切って、積み重なった汚れや後年の加筆を丁寧に洗い落とし作品が描かれた時の状態に戻していく地道な作業で、それは「再生」でありデジタル化された「創作」とまさに対極にある。フラヴィアは言う。「私は見えないものを信じる」と。フィンはフラヴィアと出会い、そしてフラヴィアにとってもフィンとの出会いが「救済」となる。「生きる」もしくは「生きたい」と思う気持ち。彼女は死の匂いがするパレルモから、祖母と暮らした美しい山間の村ガンジに彼を連れ出す。
パレルモでフィンは「死」(デニス・ホッパー)と対する。「死」はフィンをその矢で打ち抜こうとし/SHOOT、フィンは迎え撃つかのように「死」に向けてカメラのシャッターを切る/SHOOT。しかし結局、その「死」が放つ矢は「自分自身」が放つ矢だという事実に気付くに至るのだ。「死、それは一直線に未来から向かってくる矢だ。」ヴェンダースが描く「死」が印象的なのは、それは「暗い/邪悪なものとしてではなく、むしろ疲労困憊した存在として」表現されているところにある。むしろ「生」を愛する者として...。
そしてフィンは「死」を正面から見据え語りかける。「私があなたにできる事は何かありますか?」と。ときに不器用に思える程に、生真面目に正面から「死と生」そして「愛」を描いたヴェンダース渾身の一作。
[09/20/2011]
◁映画リスト
ツリー・オブ・ライフ
テレンス・マリック監督
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マスコミの前に姿をあらわすことがないという伝説の(?)映画監督テレンス・マリックの最新作で、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いた『ツリー・オブ・ライフ』。映画は1950年代のテキサスを舞台に、家族の愛、そして父と息子(長男・ジャック)の葛藤を描いている。「父」は「力」を説く。「男」が社会で成功するのは善良さではなく「力」であると。50年代のアメリカ西部についてイメージするのは私には難しい事だが、おそらく多くのアメリカ人(それが非常に一面的なものの見方だとしても)がある種のノスタルジーを持って思い浮かべる古き良き時代のアメリカ像なのだろう。「母」の愛に包まれた...?
富と成功を手に入れた長男ジャック(ショーン・ペン)は人生の岐路に立ち、父(ブラッド・ピット)の厳格さへの反発とその父に愛されたいという気持ちの狭間で葛藤する少年時代を回想する。それは愛する弟と過ごした時間でもあるのだが、より両親に愛されたその弟がその後19歳で亡くなると、かろうじて繋ぎ止められていた彼と家族の関係も途切れた。つまりこれはジャックにとって家族という共同体との「和解」の物語でもあるのだ。
蓮見重彦氏は、この映画を謙虚さを欠いた撲滅すべき「男性中心主義」の映画だと酷評したという。しかし『ツリー・オブ・ライフ』に通底する「男性中心主義」的な思想は、本当に映画の中で「肯定」されていただろうか。音楽家志望だった父親はその夢をつかみ損ねた「男」であり、その体験故に自分に課してきた「力」への信仰すらも、社会のさらに大きな「力」によってあっけなく奪われてしまう。「強さ」にせよ「弱さ」にせよ、「男」を献身的に支える妻であり母であるほとんど妄想のような「女性像」こそが「男性中心主義」を容認する傲慢さであるという主張も確かに頷ける。しかしその傲慢さを敢て我々に示す事が何を意味するのかについて、あまりに早急な決断を下すのは如何なものだろう。特に作品の賛否が二分するような状況に於いては、双方の意見共々が偏りを持つことも少なくない。
ところで今から10年前の9月11日以降、「寛容」の国アメリカはその美徳を手放してしまった。「力」には「力」。その思想の対極にあるのが「寛容」という態度であり、実はそもそもアメリカ的「寛容」と「力」とのバランスこそが、アメリカという国家(あるいは帝国)に於ける大いなる矛盾を孕んだ「男性中心主義」だとも言えよう。だからこそアメリカを内部から告発するには非常に困難な手続きが必要になるはずだ。
ツリー・オブ・ライフ(生命の樹)はエデンの園の中央に植えられた木で、生命の樹の実を食べると神に等しい永遠の命を得るとされる。この映画で言えば最後の場面にあたるのだろうが、結局それは「和解」によってもたらされる世界として描かれている。ジャックと家族との関係のように、我々に今求められるのは「否定」ではなく「和解」である。そんな身もふたもない言葉でしか解決の手段が見当たらない世界に我々は立たされているという事実を、少なくても受け入れるべきであろうと思うのだ。
[09/16/2011]
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