うつくしいくにのはなしⅡ - forget-me-not
なぜならいまの僕には、
昼も夜も、あの湖の水の
岸にくだける柔らかな音が聞こえるからだ。
車道を走っていようと
汚れた歩道に立っていようと いつも
小川は凍てつき 空港はどこも人影がまばらだ
そして雪は 街の彫像の輪郭を変え
水銀計は 死にゆく日の入口に沈む
我々の手元の計器でわかるのは
彼が死んだのは 薄暗く凍える日であった
ということだけだ
1
「国」というのはひとつの概念であるから、例えば国家や国民、国境という言葉もまた概念以上のものではないはずだ。国に「像/イメージ」を預けることで個々の人間はその国に属する国民となる。異なる国どうしの間には国境線が引かれる。また国を時間軸で管理することが歴史となる。
2
靴底が踏みしめる、面積にしてわずかな土地は私のものであり、そこに立つ時間は常に私自身のものである。その場所と時間にひとつの「像/イメージ」を与えるプロセス、それが「うつくしいくにのはなし」である。私たちひとりひとりは「くに」を持っており、それは言葉であり、また記憶でもある。それぞれの「くに」は交差することもあり、あるいは交差しないこともある。私たちの一生とはただそれだけのことだとも言える。
3
[2018年3月2日のブログより] JR大船渡線の気仙沼駅~盛駅間は2013年にBRT(バス高速輸送システム)として再開した。鉄路復旧が望まれたが多額の費用の拠出がかなわず、今後もBRTによる運行が続くという。
*
2月24日土曜日。12:01 気仙沼駅発。数人の乗客とともにBRTに乗り込む。12:27 奇跡の一本松駅着。観光客の利便性をはかり新設されたバス駅だ。小雪が混じる寒い週末の日にこの駅で降りたのはひとりだけ。震災から7年を経て、死者1,556人、行方不明者203人、家屋の倒壊4,046棟という津波の大きな被害を受けた陸前高田に初めて足を下ろした。
復興のシンボル「奇跡の一本松」については説明の必要もないだろう。2013年7月以降、津波に耐えた一本松は、地に根を張った樹齢200年の巨木ではなく、防腐処理が施されコンクリートの基礎の上に移植された避雷針付きのモニュメントとしてそこに立っている。
工事現場を囲むように遊歩道があり、その柵越しに一本松を臨む。率直な感想を言えば、それは象徴的な意味でも生命を欠いた造形物に見える。物質的な意味で生命を持たない、コンクリートの塊でしかないユースホステルの建物が湛える強い「不在の」生命感と比すれば。
インターネットでは、一本の松の木としての命が潰える直前の姿を見ることができる。その画像からは、私たちが立つ地平と絶妙ともいえるバランスを保ち、震災後の陸前高田の人たちと対峙し対話してきた命の姿がひしひしと伝わってくる。だからそれはそれでひとつの役割を終えたのだと思う。
しかしだからと言って、この場所に立つ「奇跡の」一本松が、私たちの風景に不要なものだとは決して思うまい。そこには幾つもの時間があり、見上げた幾つもの空があるだろう。語られた幾つもの言葉と、語りえない幾つもの記憶とともに。
震災後、あるいは原発事故の後に、私たちが私たちの中の「傷」を共有し、私たちの内に「傷」を抱えることが許された時期が確かにあった。今はどうだろう。強くあること、復興をすること。弱さは切り捨てられ、あらかじめ規定された二者択一が迫られる。私たちは私たちの再生を、時間をかけて構築すべきではないのか。それは私たちの私たち自身のための対話でもある。
2019年
なかねひでお
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*2 1939年 1月に「最後のロマン主義者」W. B. イエーツが亡くなった。同年 9月、ドイツがポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まる。 W. H.オーデン(1907〜1973)がイエーツを悼むこの詩を書いたのは、日常に忍び寄る戦争の、硬く乾いた靴音が聞こえるヨーロッパの凍える日々のことである。オーデンは1930年代にイギリスの詩壇で活躍。1939年にアメリカに渡り帰化し、以後はアメリカを代表する詩人となる。引用は拙訳による。
*3 三浦英之『南三陸日記』集英社文庫, 2019年. 東日本大震災で甚大な津波被害を受けた宮城県南三陸町の人たちについて、朝日新聞にコラムとして連載された文章をまとめたもの。2018年の「再訪」を加え文庫化された。