エステティック・ライフ - オートマチック展 (2015年4月6日〜 4月19日)
Aesthetic Life – Automatic のための覚え書き
鎮西 芳美 (東京都現代美術館 学芸員)
本展は、2010年に中根秀夫・平田星司両氏が企画した『Aesthetic Life』展の続編である。前回の展示は、1990年代半ばにロンドンで美術を学んでいた二人が、帰国後各々の発表を経て後いわば満を持して提示したものであったものと言う。「と言う」としたのは、残念ながら私はそれを見ておらず、だから本当は、このようなテキストを書くということに、正直、戸惑いを感じてもいる。一方、彼ら二人の企画の端緒が過去に行われたひとつの展覧会であったということは、日頃美術館で展示に携わっている私にとって特に興味深いことであった。したがって、拙文を寄せるにあたって何か接点を探すとすれば、やはり「展覧会」ということになろうか。これより先、それを頼りに「aesthetic life」について考える糸口を掴みたいと思う。(続きを読む)
エステティック・ライフ - オートマチック Aesthetic Life – Automatic
全ては1冊の本から始まる。アミカン・トーレンがローマ滞在中に描いた、どこか欲望を喚起するオートマチック・ドローイングは、ピーター・スティックランドの手に引き渡された。オウィディウスの『変身物語』巻 15「ジュリアス・シーザーの神化」からシーザーの暗殺を予兆(portents) するいくつかのセンテンスが抽出され、それはまたオートマチックに分 節化されると、オートマチックにドローイングを欲望しては渾然一体となり、遂にはこの世界を予兆する70 章の新たなテキストとして再生産される。『ROME automatic』はかくの如く存在する。
本という形式はオートマチックを欲望する。本を手に取るという行為 はまさにオートマチックであり、人はオートマチックにページを繰るだろう。ページはまた次のページへとオートマチックに受け渡され、オートマチックに物語を発生させるだろう。オートマチックな空間に立ち上 がった物語は、また受け手によってオートマチックに欲望され、新たな物語としてオートマチックに読み替えられねばならない。
『ROME automatic』は、展覧会の企画者のひとり平田星司によって日本語空間に解放される。時空は歪みながら古代ローマから英国を経て日本に到達するが、またそれは同じ筋道を遡っていく行為でもある。全て はオートマチック自身の欲望なのだ。「エステティック・ライフ」とは、1996 年にロンドンで開催された『The pleasure of aesthetic life』展と、それを企画したアミカン・トーレンに捧げるオマージュである。そして全てはオートマチックが仕掛けた欲望であり、そして罠でもある。
巨大な騒ぎは続いて起こる…。ウエダ リクオは風を奏でる装置として、オートマチックにドローイングを生成するシステムを構築する。詩は生まれ言葉は生まれる。小林潔史は手のひらに自身の体温と地球の重さを感じる。だがそれが真にオートマチックを纏うのは、手のひらに自らの 死をそっとのせてからだろう。言葉は失われる。
鈴木智惠の眼は自らの皮膚である服を捉える。服を縫う眼とそれを板上にトレースする眼はオートマチックに等価である。平田星司は支持体とメディウム(皮膜/皮膚)の関係あるいは無関係を宙吊りにし視覚化させる。プロセスは常態的にオートマチックである。中根秀夫は観る者の記憶に交感する視覚装置を調整する。水滴はオートマチックに流れ落ち、意識の中で視覚は失われる。
ROME automatic 兆し/Portents
中根 秀夫 Hideo Nakane (企画者)
平田 星司 Seiji Hirata (企画者)
ウエダ リクオ Rikuo Ueda
小林 潔史 Kiyoshi Kobayashi
鈴木 智惠 Tomoe Suzuki
会場風景