展覧会めぐり日記 01
現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展
東京国立近代美術館 展覧会ホームページ
この「キラキラ」なポスターを見て、いつものように六本木で開催される現代美術展ではなく、実は竹橋にある東京国立近代美術館のそれだとすぐに気付くであろうか。軽い眩暈とともに私たちの視線は跳ね返す金ピカの…。そもそもこのポスターの何が「現代美術のハードコア」であり、あるいは「世界の宝」なのか? バブル時代に失笑を買った「ふるさと創世」事業、各地に出現した1億円の金槐のようでもないか?
ああ、なるほど。これは挑発か…。
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この展覧会についての解説は、まず以下のように始まる。
『ひとつは、市場価格的あるいは保険評価額的に、それは「世界の宝」です。ときおり報道されるように、現在、オークションでは、生きているアーティストの作品でも数十億円単位の金額をつけることがあります。本展にもそうした作品がいくつも入っています。』
フェルメールの絵画が「世界の宝」であるように、今や現代美術作品も「世界の宝」と言える。その「お宝度」を評価する、つまり市場価格を決定する仕組みが、クリスティーズやサザビーズに代表されるオークションハウスだろう。昨年(2013年)11月、ニューヨークでフランシス・ベーコンの絵画が1億4240万ドル(約145億円)で落札されたのは記憶に新しい。美術品としては過去最高額だそうだが、最近では中国をはじめアジア地域の富裕層の拡大に伴って美術市場は過熱する一方だ。美術品は市場経済システムの内部にある。
そういえば保険評価額という言葉も近年では現代美術用語である。だがそれは少し奇妙な話ではないか。市場価格であれば作品に隣接した情報として美術史研究の中で語られて然るべきだろう。一方、保険評価額はおよそアートとは関わりの無いあるいは「それがアートであるなしに関わらず」と補った方が良いだろうか…)、保険会社が算定した「評価」額である。美術館学芸員が作品貸借の契約書類に記入する以外に、ましてや鑑賞者にとっては、何ら意味を持たないであろう保険評価額という言葉を、敢えてこの場で持ち出すのは何故だろうか。
個人が所有する絵画であろうと美術館が所有する彫刻であろうと(もちろんその逆でもかまわないが)、美術作品というのは基本的に公共の財産であるという側面を持つ。オークションで落札した作品を自宅のリビングに飾るのは当然の権利だとしても、美術作品には社会的メッセージが内包され、そのメッセージが社会に向けて開かれてこそ作品としての価値があるはずだ。個々の作品がはらむメッセージを集約しある一定の方向づけを行うことによって、「新たに」社会に対するメッセージを発生させることが、公共の財産としての美術作品を生かす美術館の役割であり、展覧会の持つ最重要な機能だといえる。
こんなことがある。
9.11以降、美術作品の保険評価額は高騰した。理由は明らかだろうが、テロの危険にさらされる現代社会では財産に対するリスクが高まり保険評価額はそれに連動する。日本でも2011年の震災の直後、海外からの作品を含む美術展が相次いで中止、あるいは展覧会は開催されても一部の作品の貸出しがキャンセルされた。実務的に考えれば、余震が続く日本で、あるいは原発事故の状況下に於て、保険会社がそのリスクを金額として算定できない事態だったからにほかならない。保険が無ければ「世界の宝」を移動し展覧会を開催することも適わない。いかに純粋美術(Fine Art)であり公共財であると言えども、アートは私たちの経済活動と切り離しえないのは明白である...が、しかし...。
*
ひとまず話を元に戻そう。
ポスターになっている金ピカのオブジェ(?)は、イギリスの作家マーク・クイン(Marc Quinn, 1964- )の《ミニチュアのヴィーナス》という美術作品だ。ファッションモデルのケイト・モスのヨガのポーズ...だそうだ。解説の続きを読む。
『もうひとつは、美術史的な意味でもそれは「世界の宝」なのです。優れたアーティストとは、いま伝えるべきことを、これまでのアートの歴史を踏まえつつ、未来においても色あせることのない形で表そうとする人のことです。彼らの作品は、たとえちょっと滑稽に見えたとしても、今を生きる私たちと無縁ではありません。そして、様々な表現が世の中にあふれかえっている中で、時代の試練に耐えて訴えかけ続けようとするものなのです。ですから、やはりそれらは、「世界」にとってかけがえのない存在だと言えるでしょう。』
美術作品には社会的メッセージが内包されるというのは先に述べた通りだ。マーク・クインは、90年代ロンドンで活躍したいわゆるYBAs(Young British Artists)世代のアーティストだ。彼を一躍有名にしたのは《Self》という作品で、私も留学中にサーチ・ギャラリー(ロンドン)で実際に見たが、5ヶ月かけて集めた自分の血液を冷凍し、自らの首像としてキャスティングしたものである。もちろん作品を作品として保つために冷凍ケース内に展示されている。当時も賛否を巻き起こした作品だが、意外にシンプルな美術的要素で読み解けるであろう。まずは停電にでもなれば(あるいは何かの事故でプラグが抜けるということもあるかもしれない)、彫像は溶けてもとの赤い血液に戻ってしまうという「想像力」こそがこの作品の軸となるコンセプトであろう。それが自己像であることを考えれば、生命維持装置にも似た機械の内部に生かされるしかない社会的存在としての「儚さ」を表現しているという解釈も可能だ。
ケイト・モスについては言うまでも無いが、ファッションという巨額の金銭が移動する経済システムの中のひとつの「イメージ」として、それが本人を超えて生産と消費が繰り返されてきた存在であると言えるだろう。一方、マーク・クインの《ミニチュアのヴィーナス》という作品を、仮に彼自身の20年前の《Self》の延長線上と考えるとするならば、要するに彼の興味は「実体」として存在しえない「イメージ」という概念への批判にあると言えよう。それは同時に現代のアートに於ける市場価値と、それに対する自嘲気味なる批判(皮肉?)とも受け取れるか…。
例えば大量消費社会のアイコンを描いたアンディ・ウォーホルがいて、あるいはアート自体を否定する戦略をとったマルセル・デュシャンもいる。だがいくら考えてみても、ウォーホルやデュシャンの美学的あるいは美術史的「価値」と比べ、マーク・クインの《ミニチュアのヴィーナス》(《Self》の方はともかくも)から受け取れる評価額は、少なくても私にとっては1億円の金槐と同程度であり、それ以上でもそれ以下でもない。
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つい先日の話。高校生と一緒にアメリア・アレナスのビデオ『なぜ、これがアートなの?』を見た(正確に言うと2の方だ)。このビデオ(および書籍)が発売された1998年には彼らはまだ生まれてもいなかったという事実…。もう15年以上も昔の話になる。アメリア・アレナスはニューヨーク近代美術館で教育プログラムを担当し、いわゆる「対話による美術鑑賞法」の先駆者である。彼女の方法論を簡単に説明すれば、作品を作者の経歴や美術史的価値から切り離し、要するに「キャプション」抜きで、鑑賞者自らの視点と想像力を「対話」という経験を通じて引き出すということだろうか。これは日本でも一大ブームを巻き起こし、今では当たり前である教育普及専門の学芸員が美術館に配置されるきっかけにもなった。
ビデオの中でインタビューに答えるアメリアは、タバコを手にした90年代フェミニストのアウトフィットで、それはそれでなんだか懐かしくもあるのだけれど、彼女の情熱とその言説は一貫して現在も有効であるように私には思える。しかしその一方で、現在のアートの世界を取り巻く状況と15年前のそれとは、体感として大きな変化を感じてもいる。少なくともアメリアなら真っ先に排除したであろう市場価格というアートの「価値」を、今では国立美術館が展覧会の中で語るようになったのだ。
今回、駅に貼られたキラキラなポスターを「見る」という行為を通じ、多くの部分でアメリア・アレナスの方法論に拠っている自分を再確認したのだが、アメリアの方法論には「必然」として欠けた視点があることに、経験を通して気付いてもいる。それは「自らが鑑賞者である」ことが全ての前提になるという、彼女の論点の裏面に書かれた現実でもある。
例えば美術館の子供向けのワークショップに参加するのは誰なのか。アートに関心が高く子どもの教育にも熱心な「層」に属する親がいて、結局のところアートを享受できるのは、いつまでも限られた子どもたちである。「自らが鑑賞者になる」機会そのものに恵まれない子どもは少なくない。これは社会格差の問題であり、私たちの現在の市場経済システムから波及する問題でもある。もちろん美術館というフォーマットと公教育に於ける美術教育を連携させることは問題解決の有効手段であり、実際にそれはここ10年の取り組みとして成果も出ているともいえよう。だが、ここで改めて考えてみるべきは、美術作品の内包する社会的メッセージは、鑑賞者を「介さなくても」独自に存在するのではないかという視点だ。
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マーク・クインの《ミニチュアのヴィーナス》という作品が画期的だったのは、彼が彼自身の作品に於いて美術作品の持つ社会的メッセージの部分を否定してしまった点にある。彼は作品の中でケイト・モスの社会的苦悩を表現したのでは決してない。つまるところ、それは作品の持つ批評機能を逆手にとって、市場価格としての美術作品という「価値」を体現したオブジェなのである。彼のアイデアは確かにアクロバティックに突き抜けているのだが、私たちはそれを「アート」と呼んでしまって本当に構わないのだろうか。
この15年の多くの方々の努力によって、日本に於ける鑑賞者教育はある水準にまで達したといって良いと思う。しかしその間、逆に日本の美術界に於てほとんど機能しなかったのが「美術批評」ではなかろうか。もちろん「批評」とはアメリア・アレナスの言うところの作品に従属したキャプション情報ではない。だが日本におけるこの鑑賞者教育の浸透と批評の不在とは、時期的にみれば不思議とリンクしている。
「作品は展示空間に鑑賞者がいて初めて成立する」という考え方はあながち間違ってはいないだろう。鑑賞者が、彼らの視線の先にアーティストの視点を重ねて、作品という額縁を通してその外部にある「社会」を見るという行為は、要するに作品における鑑賞者とアーティストの立ち位置の問題であるが、アーティスト側が逆に鑑賞者の視点に従属・追従するという危険性にアーティスト自身がついつい無防備になっていることと並列的に考えるべきではないだろうか。鑑賞者のメッセージをアーティストの方が代弁するという作品の作り方。自己と他者との関係性の曖昧さ。ゼロ年代というのはもしかするとそういう時代では無かったか…。
美術作品がはらむメッセージは公共の財産である。日本の切迫した社会状況に抗する手段として、『世界にとってかけがえのない存在である』美術作品には、市場価格の付かない評価額/価値を直接社会に問う「強い」批評が必要だ。批評は美術作品同士のメッセージを繋げ、社会に対して「より強力な」メッセージを発生させだろう。美術も美術批評も美術館も、死んだふりをしている時間はもう寸分たりとも残されていないはずである。
(名古屋、広島、京都と巡回)
[7/9/2014]
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プーシキン美術館展 フランス絵画300年
横浜美術館 展覧会ホームページ
かつては荒涼とした空き地ばかりの地下鉄みなとみらい駅周辺に、いつの間にか新しい商業施設がオープンしていた。横浜美術館の窓からはその真新しい建物と、休日を楽しむ多くの人たちが行きかう風景が見下ろせる。時の流れの速さに驚かされるばかりだ。
2年半前の2011年3月、翌4月2日から始まる横浜での『プーシキン美術館展』を目前に控え、作品の梱包を終えて飛行機での輸送を待つばかりのロシアの美術館は、東北での大地震、津波の被害、そして福島の原発事故の知らせを受けることになる。震災は関東に住む私たちの日常にさえも大きな混乱を引き起こしたが、横浜そしてロシアの美術館の現場に突如降りかかった混乱について、私たちは想像することができるだろうか。余震が続き、原発事故も予断を許さない中、展覧会中止の決定は妥当な判断だっただろう。プーシキン美術館から来るのはロシアが所有するいわば国宝級の絵画群だ。もちろん輸送となれば作品ばかりでなく、同行する美術館のスタッフや作業員の安全も確保されなければならない。
『プーシキン美術館展』ばかりでなく、海外所蔵作品の日本への出品は相次いで中止された。作品に掛けるべく保険料の算定ができないという理由もある。一例を挙げれば東京国立近代美術館で同5月から始まった『パウル・クレー展』でも、予定されたいくつかの作品の出展が見送られているのを確認した。それではどのぐらいの期間この異例の事態は続いたのだろうか。
思い出すのは2011年12月より神奈川県立美術館(葉山)を皮切りに開催された『ベン・シャーン』展である。この展覧会は、その後名古屋から岡山をまわり、最終的に翌2012年6〜7月の福島県立美術館まで続く大規模な巡回展だった。結果から言うと、アメリカの美術館が所蔵するベン・シャーンの作品は「福島には巡回しない」という条件で開催にこぎ着けた。おそらく開催半年前の初夏にはこの決定が下されたはずだ。節電の暑い夏...。確認できるのは、原発事故から(震災という言葉とは当然意味が異なる)1年以上経過しても、被災地「福島」での展示は認められない、という外の目からの判断である。
ところで「2011年に予定されていたプーシキン美術館展」は、実際のところどのような内容だったのだろうか。開催まで1ヶ月を切る3月、展覧会のチラシやポスターなどが一般にも流通していたはずだと思い当たる。検索を続けると、程なく有名な美術展ブロガー「弐代目・青い日記帳」さんの記事▶に行き当たった(ほとんど美術展のアーカイブとして機能しているという驚き!)。記事の中の小さな写真を確認すると、この2011年のチラシに載るつまり主要な出品作品は、今回2013年の展示で全く変更されていないということがわかってくる。この展覧会は、2011年も今回の2013年も愛知、横浜、神戸3館の巡回展だが、これだけの長い期間、価値の高い作品をしかも大量に確保する展覧会を、中止(延期)から2年で再設定し直し得たという事実は驚きでもある。私自身は、他国の美術館への貸し出しなどでやむを得ず差し替えられた作品が何点かはあるはずだ、という予想をしていたからだ。
さて、今回の展覧会について。ルノワールの描いた『ジャンヌ・サマリーの肖像』がたたえる眼差しは暖かく、鑑賞者の目を捉えて離さない。アングルの『聖杯の前の聖母』はラファエロの聖母を、あるいは光の粒立ちはフェルメール描いた女性をも思わせる。モネもコローも、今まで日本ではほとんど目にすることの出来なかった逸品である。これらフランス絵画の名品を見ようとたくさんの人々が横浜美術館に訪れていた。素晴らしい展覧会...。
ただ敢えて言えば、これらの素晴らしい作品を、やはり「2011年」に見たかった。展覧会というのは実際そういうものなのだ。美術は作品単体では想像しきれない、私たちの「今」に偶然立ち現れる、奇跡のようなものだ。そして、その時は2013年の「今」では無かったはずなのだ...。しかし、だからこそ、私たちは敢えてこのタイムマシンのような展覧会に乗り込むべきでもある。未だ汚染水の処理で右往左往する福島原発のある2013年の「今」を抱えて。たとえそれが二度と取り返しのつかない悪夢であったとしても、2013年以後の未来に対して私たちがとるべき責任を、「今」この場所で、私たち自身が考えるべきなのだ。
[8/17/2013]
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フランシス・ベーコン展
東京国立近代美術館 展覧会ホームページ
イギリス20世紀美術というジャンルは少なからず日本でも紹介されてきているが、例えばすぐに頭に浮かぶだけでもヘンリー・ムーア(1898〜1986)やバーバラ・ヘップワース(1903〜1975)からリチャード・ロング(1945〜)やアントニー・ゴームリー(1950〜)等々、概して彫刻の流れが強い傾向にある。アイルランドに生まれロンドンを拠点にしたフランシス・ベーコン(1909‒1992)は20世紀後半を代表する画家だが、日本ではその作品に見合った評価と検証がなされてこなかったひとりだろう。ベーコンの回顧展が日本で開催されるのはひとつの事件でもある。
2008年〜2009年にイギリスのテート・ブリテンからスペインのプラド美術館、アメリカのメトロポリタン美術館と巡回したベーコンの大規模な回顧展は記憶に新しい。ベーコンの主要作品70点ほどが出展されていたその展覧会には残念ながら駆けつけることは適わなかったが、当時カタログだけは取り寄せたものだ。今回の日本でのベーコン展は作品数こそ33点でやや規模は劣るものの、カタログを比べてみると両展で重複する作品は数点だけであり、日本独自の企画として、また前回顧展を補完するという点からもみても意義深く、贅沢な展覧会だ。
ベーコンの絵画は暴力的であるとも言われるが、ベーコン本人はその批判に対し「暴力に溢れているのは現実の世界であり絵画の中にではない」という趣旨のことを述べている。実際にベーコンの絵画を前にして見ると、身体のゆがみを伴う強く素早いタッチ、剥き出しの歯を持った奇妙な生物、あるいは屠殺された動物などの形態が、絵画上でコントロールされていることがわかる。有名なベーコンのアトリエの混沌でさえも、必然の中で管理されバランスを保っているに違いないのだ(キッチンの壁にピン留めされ整然と並んだ作品写真を思いだしておこう)。すべからく絵画がコントロールされるものであるというベーコンの確信は、ガラス入りのフレームで作品を展示するのを望んでいたということからもわかる。
動き/運動。それはベーコンにとって重要なテーマであろう。ベーコンがマイブリッジの連続写真のシリーズを制作に使用しているのは有名だ。動き/運動というのは結局「身体」の時間表現であり、例えば叫びというのも時間軸上の身体の運動であるし、トリプティック(三幅対)もその運動の時間表現の形式としてとらえるべきだろう。今回の展覧会の最終章としてペーター・ヴェルツのビデオがあるのだが、これはベーコンの絶筆のドローイングのウイリアム・フォーサイスのダンスによる再解釈を映像化したものだという。ベーコンの作品を体感した後ヴェルツの映像を見て真っ先に気付いたのは、フォーサイスの運動とともに発せられる彼の息遣いや、体が靴が床に擦れる音である。動き/運動、身体の移動には必ず音が伴う。逆に、ベーコンの絵画について改めて思い出すのは音声が遮断された感覚だ。そこに音が無い訳ではない。人間(あるいは動物でも)が動く時には、たとえモデルが足を組み替えただけでも音は発生している。そして、おそらくベーコンの絵画が発する強い恐怖はこの遮断と関係するのだ。
モデルが叫び声を上げる。だがその叫びは厚いガラスで仕切られた録音スタジオのような部屋の中の遮断された叫び声だ。隔たりの向こう側の叫び。あるいは部屋の中に椅子に座った男がいる。彼は右を向いたり左を向いたり、初めは私たちはその男と同じ時間を過ごしているような気分になるが、しかし、つまるところ私たちはそのガラスの越しの男に触れられないばかりでなく、同じ空間に足を踏み入れることすら適わないのだ。おをらくベーコンは実生活に於てもその欲望は遮断され、遮断された欲望である視覚が結ぶ像(イメージ)は、欲望すれば欲望するほどその運動だけがモデルの身体イメージから乖離し、内部器官を伴わない気味の悪い身体/肉の塊へと変移していくだろう。絵画はフレームのガラスで遮断され、現実は絵画の中で変容する。身体はガラス一枚で遮断され決してその先の身体に触れ合うことができない。おそらく人間が感じる堪え難い孤独や恐怖とはそういう類のものではないだろうか。だからこそベーコンにとって絵画はコントロールされねばならないのだ。
Francis Bacon オフィシャル・ウエブサイト(英語)▷
[3/27/2013]
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第2部 『実験場1950s』『美術にぶるっ!』 ベストセレクション 日本近代美術の100年
東京国立近代美術館 展覧会ホームページ
東京国立近代美術館は1952年日本初の国立美術館として開館(その後1969年に現在の北の丸公園に移転)した。今回の『美術にぶるっ! 』は、開館60周年を記念した日本近代美術を振り返る大規模な展覧会(かつ重要文化財大盤振る舞いの展示)ではあるのだが、「第2部」と銘打たれた『実験場1950s』という一見して地味なセクションが、今回の展覧会で重要な位置を占めているのは間違いない。
初めに、原爆・敗戦・占領を体験した日本の復興が始まる1950年代を簡単に振り返ってみよう。
1950年 朝鮮戦争。アメリカは自由主義陣営としての日本の独立と再軍備化に迫られる。
1951年 サンフランシスコ講和条約締結、日米安全保障条約調印。
1952年 講和条約の発効により日本の主権回復。
1953年 アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を提唱。石川県内灘村の米軍試射場のための土地接収への反対闘争が始まる。
1954年 ビキニ環礁で水爆実験、第五福竜丸被爆。自衛隊設立。
1955年 講和条約を巡り対立していた社会党の右派と左派が再統一し日本社会党が成立、危機感を持った財界が仲介し保守勢力も結集し自由民主党設立。55年体制の始まり(以後憲法改正を綱領に掲げた自由民主党と平和憲法擁護を掲げる日本社会党など野党が3分の1以上の議席により憲法改正の発議を牽制するという構図)。原子力基本法成立。原子力研究予算2億3500万円(この2億3500万円という金額はウラン235によるそうだ)。東京都立川の砂川基地拡張反対が広がる。
1956年 国際連合加盟。「もはや戦後ではない」(経済白書)。日本の経済復興が本格化しはじめる。
1957年 岸信介首相が「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」と述べる。東海村原子炉で初の臨界。
1958年 1万円札発行。東京タワー完成。関門海峡開通。
1959年 安保条約反対の2万人のデモ隊が国会に突入。東京オリンピック決定
(1964年開催)。1960年 日米安全保障条約改定。
...やはり激動である。
先の『具体』展でも見たように、1905年生まれの吉原治郎が関西で「具体美術協会」を立ち上げたのが1954年である。ここで1950年代に活動する美術家達の「世代」について確認をしてみる。例えば「実験工房」を主催することになる瀧口修造は1903年生まれ、写真集『ヒロシマ』を刊行する土門拳は1909年生まれであり、吉原もそうだが終戦の年をを40歳前後で迎える、戦争と自らが深く関わった世代だと言えよう。一方で、写真集『地図』の川田喜久治や『浴室』シリーズの河原温は1933年生まれで、彼らにとっての戦争体験は幼年期の一部として捉えられ、特に戦中と戦後の「教育」を通して世の中の矛盾を体験した世代とも言えよう。その間に松本竣介も岡本太郎も(1911年生まれ)、山下菊二(1919年生まれ)も北代省三(1921年生まれ)もいる。30歳程の年齢差がある世代が50年代に一気に活動を開始したこととなる。
この1950年代に文学や映画、漫画、版画に至るまで横断的で大衆的な芸術表現が繰り広げられたのには、「戦争」という幅広い世代に共通する記憶と体験故であり、国家権力に抑圧された表現の開放について、また戦争による破壊の後の現実社会への向き合い方について、それぞれの「個人」が真摯に問うた時代だと言えるであろう。しかしながら、ある意味で共有していると思われた戦争の記憶や体験も、60年代以降の経済成長とともに、それぞれの世代によって微妙な意識の差が見え始め、さらに同じ世代であっても地域や環境あるいは自らの置かれた地位や身分によって、戦争体験は決して普遍ではあり得ず、次第にその差異の方がはっきりと発現するようになる。
...例えばこんなことも考えてみる。先の震災と原発事故で、私たちの気持ちは(一時的ではあれ)、「ひとつ」に集約し共有されたと言っても良いだろう。しかしそれから1年9ヶ月後の現在では...。
久しぶりに再開した「展覧会巡り日記」だけれども、「美術」というテーマからすっかり離れてしまったように見えるかもしれない。しかしこれは大事なことなのだ。私たちは「今」大きな転換期を迎えている。だからこそもう一度私たちが60余年歩んできた「歴史」を再検討し、「今」ここで再度同じ選択をすることに対して真剣に考えてみるべきなのではなかろうか。
2012年の年末。「今」こそが私たちの現代日本の記念すべき「第2部」の始まりであり、次の時代に向けての「日本」と「美術」のスタート地点であるかもしれないのだ。『実験場1950s』から『実験場2010s』へ。
[12/23/2012]
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「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 試論その1
国立新美術館 展覧会ホームページ
「具体」こと「具体美術協会」は吉原治良(1905-72)のもと、1954年に兵庫県芦屋市で結成された前衛美術集団だ。戦後からの復興、そして55年体制前夜の日本に於いて、日本人が何に直面し何を感じ、その時美術家たちは何を考えたのだろうか。そのことを振り返るのは確かにひとつ意義があるだろう。「具体」はその後18年間という長期の活動を繰り広げ、大阪万博での大規模なパフォーマンス「具体美術まつり」(1970年)を経て、72年吉原の死去によりその幕を閉じる。「具体」自体は完全に戦後日本美術の運動なのだが、1905年生まれで戦前・戦中期を画家として生きた吉原が、戦後のこの時期に世代が離れた若い美術家達を率いたという点がその特徴である。
20代前半には画家としての活動を始める吉原だが、画家として進むべき方向を見出したのはそれから10年ほど後になる。1938年、吉原は東郷青児と一時帰国中の藤田嗣治を顧問に招いて、「二科会」(文展から離脱した)の前衛作家とともに「九室会」を立ち上げる(二科会の第九室に前衛傾向の作家が集められたこよによる)。しかし日本が戦争に向かうにつれ吉原を含め前衛芸術の活動は弾圧の対象となる。その現実は、その後の彼の人生に少なからず影響を与えたと想像できるし、おそらく吉原製油の社長という特権的地位も、戦時の吉原にとってある種の矛盾を孕む「傷」として心に刻まれたのではなかろうか。
戦後、吉原は画家として活動を再開し「二期会」の再建に尽力する。そして1954年に「具体美術協会」を立ち上げる。この時吉原はすでに50歳を迎えようとしているところだった。自分より20歳以上も若い美術家を集め、運動体として「新しい美術」を提示し、具現化する中心人物となる訳だが、彼が「具体」を始めるにあたっては、ひとつのモデルとして「シュルレアリスム運動」に於けるアンドレ・ブルトンの位置を意識していたように思われる。吉原は常に海外の美術の動向に目を向け、自身も戦前には「シュルレアリスム風」の絵画を描いていた。「シュルレアリスム」が第一次大戦という大きな戦争後の世界観を体現する運動だということとも関わりがあるだろう。少し長くなるが吉原の「具体美術宣言」から引用してみる。
うず高い、祭壇の、宮殿の、客間の、骨董店のいかものたちに袂別しよう。
これ等のものは絵具という物質や布切れや金属や、土や、大理石を人間たちの無意味な意味づけによって、素材という魔法で、何らかの他の物質のような風貌に偽瞞した化物たちである。精神的所産の美名に隠れて物質はことごとく殺戮されて何ごとをも語り得ない。
これ等の屍を墓場にとじこめろ。
具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。
具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ。
芸術は創造の場ではあるけれど、未だかつて精神は物質を創造したためしはない。精神は精神を創造したにすぎない。精神はあらゆる時代に芸術上の生命を産み出した。しかしその生命は変貌を遂げ死滅してしまう。ルネッサンスの偉大な生命群も今日では考古学的な存在以上の生命感をうけとり難い。
今日消極的ではあるけれど辛うじて生命感を保ち得ているものはプリミチヴの芸術、印象派以降の美術群であろうけれど、これ等のものは幸いにして物質の、即ち絵具を駆馳してごまかし切れなかったか、或は点描派、フォーヴィズムのように物質を自然再現の用に供しながらも殺戮するにたえなかったものたちだ。しかし今日もはやわれわれに深い感動をもたらし得ない。過去の世界だ。
ここに興味のあることは過去の美術品や建築物の時代の損傷や災害による破壊の姿に見られる現代的な美しさだ。これ等は頽廃の美としてとりあつかわれているけれど、案外人工の粉飾のかげから本来の物質の性質が露呈しはじめた美しさではないか。廃虚が案外に温く親しみ深く我々を迎え入れ、さまざまな亀裂や剥だつの美しさをもって語りかけることは物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿かも知れない。以上の意味に於て、現代の美術ではポロック、マチュウ等の作品に敬意を払う。これ等の作品は物質即ち油絵具やエナメル自体が発する絶叫である。これ等の二人の仕事はそれぞれの資質的な発見による的確なやり方で物質と取組んでいる。むしろ物質に奉仕するようでさえある。分化と統合のすさまじい効果 が湧き起っている。(これ以降はメンバーの紹介文となる。『具体美術宣言』1956年)
内容はそこはかとなくロマン主義的な傾向を湛えているが、幼年期から青年期にかけて大正浪漫の空気を吸い込んだ油問屋の御曹司が、戦争という不条理にその自由を抑圧された苦い経験が、彼の「宣言文」には素直に表れていると思う。吉原はここで「絵画」、あるいは「美術」とは何かという問いを立て、再現性の美術を否定し、物質自体が持つ強度を評価した。「無意識」や「夢」を創作の拠り所にした「シュルレアリスム」よりもさらに苦しい立場に自らを追い込まざるを得なかったのは、「敗戦」という痛手故なのだろうか。精神に対する物質の優位性を解く宣言文にはなっているが、「具体」の若い作家達を見る限り、彼らは物質は内なる精神を解放するものと理解したようだ。
吉原は戦後アメリカ美術のヒーローであるジャクソン・ポロックを崇拝し、ポロックの遺品からは「具体」の機関誌が発見された(もちろん吉原自身が送ったものだろう)という逸話を残し、または活動の中期からはジョルジュ・マチュウの「アンフォルメル」と歩調を合わせるように「具体」という運動体を操舵してきた結果として、「GUTAI」は日本の芸術家集団として海外からの評価を受けるようになるのだが、その評価が高まるにつれグループとしての存在意義は少しずつ曖昧になってくる。(続く)
[8/25/2012]
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「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 試論その2
(承前)「具体」の実質的な活動は、1955年に新制作派協会の「0会」に所属する若手作家、白髪一雄、金山明、村上三郎、田中敦子らが加入することに始まる。白髪、金山、村上らはほぼ同年代で30歳を迎えたばかり、田中は23歳の若さだ。同年に芦屋公園で開催され吉原も審査員を務めた「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」(芦屋市美術協会主催)は、日本の戦後美術の幕開けに相応しい熱くエネルギーに満ちたものとなった。そして「第1回具体美術展」、その翌年(56年)の「野外具体美術展」、「第2回具体美術展」という流れの中で、田中敦子の《電気服》や村上三郎の《入口》をはじめ、山崎つる子、元永定正、嶋本昭三らの初期「具体」の代表作が出揃う形となる。
このあたりはやはり吉原治良のプロデューサー的能力の高さを評価すべきであろう。人材発掘のために芦屋市展に目を配り、広報活動を踏まえた小原会館(東京)での展示や「ライフ」誌への撮影機会の提供(実際には記事にはならなかったが)などの戦略、そして会員の作品制作についてもダメ出しをしたという。今や齢50となる吉原が、親子ほども年が離れた(実際に吉原通雄は彼の次男)若い美術家に傾けるこの情熱はいったいどこから来るのだろうか。例えば、吉原がかつて「九室会」を立ち上げた1938年を思い起こせば、戦争に向かう状況下で、30代の抽象画家吉原の行き場の無さは想像に難くない。自身が実現できなかった若き夢を戦後の若い作家に託すというロマン主義的な感傷もそこにあろう。この世代で吉原のように大戦を経て生き延びた者は決して多くない。彼の生家の植物油製造業が軍用にも需要があったということとも無関係ではないはずだ。
ところで戦争体験は世代によってその受け止め方が意外に異なる。例えば1924年生まれの白髪らは終戦時には21歳ということとなる。彼らから見て上の世代は優秀な人材を多く戦争で失い、一方で生き延びた者も画壇の中で戦争画に加担した/しないで「内輪もめ」状態であったりもする。個人的な戦争体験を加味しても、具体若手メンバーの吉原に対する屈託の無さは、そんな状況からたまたま切り離された彼らの世代と関係が無くもない(その屈託の無さはミシェル・タピエにも対しても発揮されるわけだが)。一方32年生まれの田中は学齢期に社会の価値観が反転する世代だ。美術に対してもある種の醒めた目を持ちつつも、兄貴分のメンバーとの繋がりの中でその才能を開花させることとなる。吉原/白髪らの世代/田中、この3点の微妙な位置取りが、初期「具体」という運動体を驚異的に跳躍させたのではないだろうか。
もちろんこの新しい美術の流れは、政治的にも文化的にも東京の画壇から切り離された関西という土壌でこそ成立する。美術団体の枠を超えた交流として知られる研究会ゲンビ(現代美術懇談会)は、無論東京では起こり得なかっただろう。そしてさらにそのゲンビからも一歩踏み出したのが吉原を筆頭とする具体のメンバーでもある。(さらに続く)
[9/4/2012]
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「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡 試論その3
(承前)アンフォルメルを説明するのはさほど難しいことではなく、デュビュフェ、フォートリエ、ヴォルスという名前を挙げればすむことでもある。しかし問題は戦後のパリを中心としたこの運動が、美術の「政治」と関わるところにある。
19世紀から20世紀初頭にかけて美術の中心は言うまでもなくパリにあった。ところが1940年代になり、シュルレアリストをはじめヨーロッパの多くの芸術家が戦火を避けてアメリカに亡命すると、それまで美術の世界では辺境にあったアメリカの若い芸術家は大いに刺激を受け、それは新しい時代の美術を生み出す原動力となる。アメリカ「経済」は一流の国家としてのアメリカ「文化」をも強く求めたこともあり、結果として戦後美術の中心はパリからニューヨークに移る。抽象表現主義は初めてのアメリカ発の美術であり、そしてアメリカンヒーローのポロックをもってグリーンバーグやローゼンバーグら美術批評家が積極的にそのムーブメントを理論化する役割を持った。
ここで戦後美術の主導権争い、つまり芸術の都をパリに取り戻したいと考えたのがフランスの美術批評家ミシェル・タピエ(1909〜87)だ。戦後のフランスに胎動する新たな非具象の表現主義絵画の動きを、世界各国同時多発的運動「アンフォルメル」と名付けその集約を目論みる彼は、1951年にパリで『アンフォルメルの意味するもの』展を企画しその思想を具体化し活動に弾みをつける。1956年には初めてアンフォルメルの作品が日本に紹介され(『世界・今日の美術』展、東京から大阪、京都、福岡を巡回)、遠い地で活発な活動を繰り広げる「具体」に目をつけた彼は翌57年に来日。「アンフォルメル旋風」が日本の美術界に吹き荒れることになる。
ちなみに「もはや戦後ではない」と言われたのが56年のこと。そんな誰もが浮かれた気分に浸るなかタピエと吉原治郎は共同して企画を繰りだす。それは「具体」のメンバーの海外進出の契機にもなったのだが、結局は「具体」はこの政治的そして商業主義的なタピエの運動に足をすくわれることになる。もちろんことは「具体」に対してだけではなく、例えば「読売アンデパンダン展」が「アンフォルメル」で埋め尽くされたという事実もあり、ともかく日本そのものが「反芸術」に浮かれていた時期だとも言えるのだが、「アンフォルメル」という枠組に引きずられたこの時期の「具体」の作品もまた絵画としての強度不足は否めない。ところが幸運はある時には計り知れず、タピエの政治力が弱まる60年代以降、今度はアメリカ人のアラン・カプロー(1927〜2006年)が、「アンフォルメル以前」の「具体」の活動を「ハプニング」の先駆として位置付け、思いがけずも今度はアメリカでの評価を手にすることになる。これもまた「政治」の話ではある。
さて、ここでもう一度「具体美術宣言」(前掲)を見直してみる。実はそれは「具体」が結成された1954年に出されたものではなく、1956年『芸術新潮』による依頼によって、つまり吉原がタピエの動きを睨みながら書いた後付けの宣言なのである。実際、吉原治郎には「具体誌」創刊号に記したように
「われわれにとって最も大切な事柄は、現代の美術が厳しい現代を生きぬいて行く人々の最も開放された自由の場であり、自由の場に於ける想像こそ人類の進展に寄与し得る事であると深く信じる」
という純粋な理念があった訳だが、その理念を一見封印するような形でかかれた「具体美術宣言」はタピエにおもねると言うよりは、むしろ来るべくフランスの外圧から「具体」メンバーを守るべく防波堤的な意味合いをもそこに感じてしまう。だからこそ吉原はタピエと対等の関係であり続け、それこそ若い美術家達が美術界の「政治」に巻き込まれないよう身を挺したとも言えるだろう。もっとも自由奔放の若い彼らは吉原の手を離れて自らの道を選択することになる。(未完)
[9/19/2012]
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フェルメール雑感
国立西洋美術館 展覧会ホームページ
オランダから来た頭に青いターバンを巻いた少女像が話題になっていて...衰えることのないフェルメール人気には驚くばかり。とは言うものの、実は自分も今から12年前(2000年)に来日した『青いターバンの少女』(当時は「真珠の耳飾りの少女」ではなくこちらの方が一般的な呼称であった)を見るため新幹線で大阪まで足を運んだのだ。会期終了間際の週末ということもあり入場2時間待ちの大行列。途中で小雨も降り出し、隣り合わせた大阪のおばちゃんの折り畳み傘に入れてもらい...。念願のフェルメール作品の前にたどり着いたときには、なんだかもうどうでも良い気分になっていた。
実はこの大阪での展覧会が後の日本に於ける爆発的フェルメールブームの先駆けである。その懐かしい(?)展覧会カタログのページを繰っていると、この10余年の美術/美術館/展覧会を取り巻く状況について今さらながら考えさせられる。『フェルメールとその時代』は大阪市が主催する日蘭交流400周年の記念事業であり、一見すると大阪市立美術館の単館開催の企画展に見える。フェルメール作品も《聖プラクセディス》《リュートを調弦する女》《天秤を持つ女》《地理学者》そしてこの《真珠の耳飾りの少女》の5点を、バーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクション、メトロポリタン美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー、シュテーデル美術館、マウリッツハイス美術館から借り受けた、今から考えれば非常に贅沢な展覧会だったのだ...。あれっ? 今気付いたのは企画に名を連ねるとある財団。
バブル経済はすでに終焉を迎え、思い返せば1999年〜2000年頃が日本の公立美術館にとって最後の大規模予算の展覧会執行時期であったはずだ。書棚に積み上がる展覧会カタログの中からフェルメールの名がつくものをいくつか引っ張りだしてみると、やはり...。『フェルメール展ー光の天才画家とデルフトの巨匠たち』(2008年)と『フェルメールからのラブレター展』(2011年)のふたつの企画にその財団が関わっていた。2000年に京都で開催された『大レンブラント展』もそうだ。ちなみにこちらも日蘭交流400周年の記念事業。どうやらこの財団はオランダに太いパイプがあり、この時期に相当力をつけたようだ(ネットで検索してみると、これらの経緯について代表が文芸誌に寄稿しているらしい。まあ周知の事実といえばその通りなのだろう)。
さて、現在日本で盛んに開催されているフェルメール展というのは大別して2通りあり、ひとつはこの財団の息がかかったもの、もうひとつは大規模な施設の改修工事を控えた海外の美術館が、フェルメールを日本に貸し出すことで費用の穴埋をするというもの。いずれにしても世界に類の無い「フェルメール好き」の日本人をターゲットに大金が動くという構図。例えば門外不出とも言われた『牛乳を注ぐ女』が、2008年にあっけなく日本にやって来たのも、アムステルダム国立美術館の懐事情だろう。もっとも海外発のフェルメール展はそれなりに美術館の威信をかけて展覧会の企画をする訳で、フェルメールが毎回引き連れてくる数々の17世紀オランダ絵画の質は高く、ずいぶんと勉強になったことも確かだ。しかし日本の美術館は果してこの状況を本当に良しとしているのだろうか。これでは単なる貸館業務にすぎないではないか。新聞社とテレビ局が展覧会を主催し、広告代理店が展覧会を仕切り、タレントを起用して展覧会を宣伝をする。
すっかり長い前置きとなってしまったが、実は現在上野にはもう1点フェルメールが来ている。西洋美術館で開催中の『ベルリン国立美術館展ー学べるヨーロッパ美術の400年』。見ての通りこの展覧会名にフェルメールの文字は見あたらない。もちろんこの《真珠の首飾りの少女》はフェルメール作品としても非常に良質で、当然新聞やテレビでもこの作品を今回の展覧会の目玉としてアピールしてはいる。しかし美術の長い歴史から見て「フェルメールが好き」というのは「クラナッハが好き」というのと同じレベルの話で、決してフェルメールの作品ばかりが特別ではないのは紛れもない事実であり、貸し出す側のベルリン国立美術館も開催する側の西洋美術館も(本来当たり前のことではあるが)そのことをしっかりとわきまえていると言えるだろう。
美術館の名前が冠される展覧会はあまたあれど、実はその美術館がどのように自らのコレクションを培ってきたのかは非常に重要であり、それがその美術館の存在意義と直結する。ハプスブルク家ならまだしも、限られた公共の予算の中でコレクションを築いた結果は、100年後、200年後の未来の美術館像と深く関わる。今回の展示でいえば、ルーベンスにせよベラスケスにせよレンブラントにせよ、あるいはフェルメールにせよロイスダールにせよ、派手さは無いがどれも名品と言うに相応しいコレクションであり、先人の情熱と知性がそこに伺われる。美術館は単なる展示場ではなく研究機関でもあることを思い出そう。この次の10年で日本の美術/美術館/展覧会の状況を変えるために、送り手側も受け手側ももう一度そのことを確認すべきである。
[7/21/2012]
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生誕100年 ジャクソン・ポロック展
東京国立近代美術館 展覧会ホームページ
生誕100年、ジャクソン・ポロック(1912~1956)の回顧展。
「キャンバスをイーゼルから引きずりおろした」と言われるポロックは、ラジオ番組でのインタビューで自らの技法を問われ「東洋人はそのようにしてきた」と嘯く。
(interviewed by William Wright, 1950)
唐突ながら私が大学の日本画科で学んでいた頃のこと(今から四半世紀前)。大きな麻紙を床に平らに置き、礬水引き(滲み止め)をして、そしてその巨大な白い空間を上から覗き込んでいるうちについつい「ポロック的」ドリッピング/ポーリング(pouring)の誘惑に駆られ、誰からとも無く岩絵の具や水干絵の具を画面の上に撒き始め、それが瞬く間にクラス中に伝染し、当時は講師でいらした某先生が教室に入るなるなり呆れた顔をされたのを今でも憶えている。ある種の気まずさを伴った、それでもまあ無邪気と言えば無邪気な思い出ではある。今更ながらだがそのポロック的「行為」について追体験的に検証してみようと思う。
例えば画面の水平性について。絵の具という物質にかかる「力」の全てがキャンバスの表面にとどまる、つまりイーゼルに立て描く時のように筆致によって画面に与えられた「力」が重力の方向に逃げていくイメージがないというのはかなり独特の感覚だ。あたかもナルシス覗く水面のように深く画面に引き込まれる感覚はこのあたりから生まれるのだろうか。
または偶然性について。画家は自らの意思と画面空間からの要求を感受する力との狭間で絵画空間を構築するわけで、プロフェッショナルの画家であれば、画面上に残る痕跡の全てはテクニカルにコントロールされている「行為」であると言える。ポロック流に言えば、それは画面と「コンタクト」を取っているということになる。ここで絵の具がどのように流れるかが「偶然=コントロール不能」であるというのは、およそ素人の考え方であって、要するにそれは具象絵画であればそれは筆勢や筆致の類の話なのだ。これは極めて伝統的な絵画制作の基本原理であろう。ポロックは絵画の枠組みをそのものを否定したことはない。
今回ポロックをその初期作品からクロノロジカルに追っていくと、彼の本質が「色彩画家」であることに容易に気づくだろう。「色彩画家」という言葉に正式な定義があるのかは知らないが、それは(私の解釈では)単に奇麗な「色彩」を使えるという意味ではなくて、画面を構成する拠り所に「線」ではなく「色彩」を用いるという「資質」であるとしておこう(その意味で、例えばポロックの敬愛するピカソは決して色彩画家ではあり得ない)。ポロック絶頂期の傑作《インディアンレッドの地の壁画》(テヘラン現代美術館所蔵)は息をのむ程美しい絵画である。使われている色(塗料)は7もしくは8色。色数が多くも少なくもないのは逆に難しいのだ。まさに究極の「色彩画家」である。しかしながらポロック自身の頭では「ピカソがみんなやっちまった」というぐらい本人の資質には無頓着であり、また周りもその本質について語ることも無く、ピカソの後を追うように線あるいは形の追求に移行する。画家としてみるとそれはとてもエキサイティングなことなのだが、既にアメリカンヒーローに祭り上げられていたポロックのイメージと、彼にまつわるアクション・ペインティングという不可解な言葉を世間は手放してはくれなかった。
ところで、今ではすっかり陰を潜めた感のあるアクション・ペインティングという言葉は、ローゼンバーグ/グリーンバーグ的な論争はともかく、おそらくハンス・ネイムスの撮った写真によるイメージの増幅が大きいだろう。ネイムスがポロックの「何を見たか」、または何を「見たかったのか」がこれほどあからさまな写真は無い。ポロックに対するアメリカンヒーローそしてアクション・ペインティングという位置づけに対してそれを捏造とまでは言わないにせよ、その増幅されたポロック像はポロック自身の抱える身体から遠く隔たった場所に置き去りにしてしまった。そのロマン主義的ナショナリズムは当時のアメリカで全盛を迎え、そして彼自身の命と引き換えにしてアメリカ現代美術の記念碑を築いてしまったわけだ。それはまた当時の美術批評も当然その責任の一端を負うべきことだろうが。
ハンス・ネイムスによるこれもまた有名な映像。 特に後半ガラス上での制作ではポロックがいかに絵画的に画面を構成しているかがわかるだろう。ピカソもガラスの上で描いた映像が残っている。ピカソのようにやりたかったのだろうな。
[3/8/2012]
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