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Japanese

Stay out, stay home

中根 秀夫

この展覧会は、昨年開催された「木戸駅と - #KidoStation」の続編である。東日本大震災そして原発事故から10年を迎える福島の、常磐線の小さな駅を再び訪ねた。巨大堤防を臨む山田浜海岸で撮影した写真から2点、そして自宅のベランダで咲く、真夏のこの季節の小さな花、オレガノ・ケントビューティーの写真を8点、計10点を展示する(会期中展示替えあり)。

 

英国海峡の方から吹き寄せられた雲が
私達の最後の日曜日を台なしにしてしまった。
「冬が来る」ジュール・ラフォルグ (吉田健一 訳) 
0.

2011年3月11日(金)。東日本を襲った震度6強の地震の直後、10メートルを超える巨大津波が海沿いの住居と農地を押し流した。

その日は関東地方でも大きな揺れがあった。電車の運行は止まり、多くの人が都心の勤務先から幹線道路沿いに歩いて帰途に着いた。テレビでは東北を襲った地震と津波の映像を繰り返し報じた。翌12日土曜日午後3時36分、第一原発1号機の原子炉建屋は水素爆発で大破した。

福島第一原子力発電所から南に約18キロの距離にある前原・山田浜地区では、津波の後始末をする間もなく避難を命じられ、その後の立ち入りは厳しく制限された。

 

くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
「神様2011」川上弘美
1.

2013年9月1日(日)。福島市内から常磐自動車道をいわき市に向かい、そこから浜通りを北上する。広野ICを降りると正面にJヴィレッジが見えてくる。東京電力が出資し寄贈した広大なサッカー・トレーニング複合施設で、原発事故対応の前線基地となった。右手に停止中の広野火力発電所の煙突が見える。左に折れるとすぐに双葉郡楢葉町の入口で、ここから先が原発20キロ圏内となる。

国道6号線・陸前浜街道を北上する。海側に並走する常磐線の小さな駅があり、その奥に広がる集落が前原・山田浜地区だ。木戸川の河口南東方向に広がる集落で、鮭が遡上する小さな河川と豊かな自然に育まれた土地と聞く。国道沿いの民家に人影はない。前年2012年8月に楢葉町のほとんどが避難指示解除準備区域となり、夜間を除いて自由に出入りが可能となった。津波被害による瓦礫の撤去も2013年6月末までに完了した。その2ヶ月後、そして震災・原発事故から2年4ヶ月目の夏の終わりに、私はこの奇妙な静けさをたたえる前原・山田浜地区にいる。広い視界の先には損壊し生活を剥奪された家屋が、あるいは道路端の畑には地面に突き刺さったままの白い車が、時を忘れたかのようにその場にとり残されている。

不通となっている常磐線の広野駅(広野町)から竜田駅(楢葉町)まで8.5キロの開通に備え、周辺地域の除染作業が進められている。放射能にまみれた土壌や草木などは大きな黒い袋に回収され日々仮置き場に積み上げられる。周辺の空間線量は福島市内とほぼ同じレベルにまで下がっている。 

 

9月8日。2020年のオリンピック開催都市が決定する。「復興五輪」「アンダー・コントロール」と、どこまでも軽い言葉が宙に舞う。

 

2.

2015年6月28日(日)。楢葉町は、福島第一原発20キロ圏内では比較的線量が低い。除染も進み、前年2014年6月には、JR常磐線の広野~竜田駅間の運行が再開した。今、再びこの美しい土地を訪ねてみようと思ったのは、政府の原子力災害現地対策本部が、お盆前には避難指示を解除する方針を掲げ住民との話し合いが持たれている、との記事を読んだからだ。

細い雨が降る。日曜日だが人影はほとんどない。除染作業もお休みだ。かろうじて家の外観を保っている住居。深く刻まれた津波の爪痕にカメラを向けることができなかった。津波に耐えた木々。目と鼻の先の海。激しい波がテトラポットの浜に寄せ来る。車止めの赤いコーンのその先。

雨が少し強くなってきた。車に乗った住民の方に呼び止められ、少し話をした。飼っている鳩に餌をやるため数日おきに自宅へ戻って来る。同じ前原地区でも彼のように僅かの差で津波の被害を免れた人もいる。線量も下がり、自宅のリフォームも完了して、この地に戻る心づもりはあるという。だが同時に、インフラ整備もままならぬまま、瓦礫の撤去と帰還とを並行して行うという状況には不安を感じてもいる。住民それぞれに思うところがあるのだ。

車で木戸川橋の手前まで送ってもらう。鮭が遡上する美しい川。津波はこの川をも駆け上った。周辺には人の気配がないものの信号機は動いている。時折乗用車とすれ違う。車の中から視線を感じる。小高い丘を登ると広い公園になっていて、そこから木戸川を挟んだ前原地区の仮置き場の広大さが確認できる。積み上げられた黒いフレコンバッグはシートで覆われていた。遠くに見える煙突は広野の火力発電所だ。原発事故後、東京は福島から電気が供給されていたことを知る。東京電力広野火力発電所は今も稼働中だ。

 

3.

2016年8月6日(土)。いわき駅より05:49発の常磐線下り列車に乗る。

木戸駅06:13着。駅前の家に組まれた足場に「住民無視の建設を中止せよ」との垂れ幕が掛かる。踏切を渡り、木戸川へと向かう道を歩き始める。平日の朝6時を過ぎたところだが、次々と車が通過してゆく。一方で郵便局も小さな商店も閉鎖したまま。家屋や庭には概ね手が入っている様子から、元住民は、週末を我が家で過ごす、あるいは小さな片付けをするために、避難先から自宅に通ってくるのだろう。この地で生活を再開した人はまだまだ少ない。木戸川沿いまで歩き、右折して海に向かう。放置されたままの牛舎が痛々しい。遠くに仮置場の白い建物が見える。

海岸線はすっかり姿を変えてしまっていた。去年まで辿り着くことができた山田浜は高い堤防の基礎に覆い隠され、工事のため立ち入れない。計画書によれば防潮堤の高さは8.7m。手前に盛り土をして防災林を植えるそうだ。福島第1原発事故に伴う福島県内の汚染土などの除染廃棄物について、放射性セシウム濃度が1キロ当たり8000ベクレル以下であれば、公共事業の盛り土などに限定して再利用する基本方針を環境省が発表した。環境省の非公式会合では、同5000ベクレルの廃棄物が同100ベクレル以下まで低下するには170年かかる一方、盛り土の耐用年数は70年とする試算が出ている。番号を振られ整然と並べられた汚染土入りの大袋はどこに埋められるのか。

最後まで残った津波に削られた家屋も今は全て取り払われ、代わりに「津波浸水区間ここまで」の真新しい看板が掲げられている。木戸駅へ戻る途中に何台もの車とすれ違う。公用車は、おそらく現場で指揮をとる役場のものだろう。軽く会釈を返してくれる人もいる。

 

木戸駅08:19発。10人程の乗客と入れ替わりに、再びひとりで電車に乗り込む。車内は想像より込み合っていた。08:23終点竜田駅着。50人程が降車。しばらくホームで立ち尽くす。建設関係と思われる会社の朝礼の放送が聞こえている。海に向かって歩く。徒歩にして20分。谷あいの小さな集落で、工事は始まってはいたが高台からはまだ波の寄せる海岸線が見渡せる。海が見たかったのだ。

 

残酷だなと思う。波は繰り返し打ち寄せるが、時間は5年前から止まったままだ。震災では津波で多くの命を失ったが、住む土地まで追われなければならなかったのは原発事故があったからなのだ。住民の方の失われてしまった時間を、私たちはどう償うというのだろうか。東京電力管内に住む私たちの電気は福島から来ていた。私たちは5年前に初めてそのことに気づいた。しかし5年経った今、そのことを全く忘れてしまったかのような政策が進められ、そして私たちは、結果としてその政策に加担している。

竜田駅より先、小高駅までは、現在代行バスが1日2往復している(2015年1月15日より)。同駅10:05発。バスは国道6号線浜街道を北上する。竜田駅から小高駅に至る36.6キロ区間は帰還困難地域だ。車内には線量計が設置され、車内の空間線量はモニターされている。

 

4.

2018年2月23日(金)。いわき駅07:49発富岡駅行きの列車に乗り込む。通勤時間帯の車内には役場の職員や現場作業を請け負う人の姿が見える。途中、数名の高校生が乗り込み、そして広野駅で降りていった。2015年開校のふたば未来学園高校の生徒だろうか。震災前には双葉郡に5校あった県立高校はひとつに集約された。君たちは双葉の未来を背負うのか、背負わなけばならないのか。

08:17木戸駅着。10人ほどの乗客が降りた。楢葉町で原発事故に伴う避難指示が解除されたのは2015年9月のこと。それから2年半が経つ。時折小雨が混じる寒い日。静かな。そして瓦礫は全て片付けられ、津波で大破した家屋もすでにそこにはない。何事もなかったかのようだ。ラジオ体操が朝の始まりを告げる。海辺の土地は畑地だが、そこには農作業をする人の姿は無い。

防潮堤の工事もだいぶ進んでいる。いわきナンバーのトラック数台が通り過ぎ、運転手は皆軽く会釈を返してくれる。囲いの中で防災林用と思われる松の苗木を育てていて、その向こうに火力発電所の煙突と煙が見える。ゆっくりとした時間が流れる。

避難指示が解除されたにせよ、小さな地区には病院や学校も無く、商店も郵便局も閉鎖されたままであり、定住し生活をしていくのに困難な状況が伴うことは想像に難くない。震災から7年が経ち、新しい土地で新しい生活を始めた人も多い。現在この地区の居住者は56世帯128人と記載されている。

 

09:49木戸駅発。常磐線竜田駅~富岡駅間は去年2017年10月21日に復旧した。10:00着。富岡駅は海岸線から程近く、津波で流された駅舎の写真が知られている。夜ノ森方面の信号機に貼られた×印が、この先の不通区間を明示する。駅を出ると区画整理だけされた土地とバスターミナルが見える。

やはりここでも巨大防潮堤の工事が進められている。工事現場の入口を左に逃げると、やや高台に富岡川に架かる橋があり、そこから堤防の建設現場と港の復旧工事の進捗を眺める。聳え立つかに見える防潮堤も見下ろせば意外になだらかだ。河口左岸には錆びついた漁船が震災そのままの状態で岸に繋がっている。

11:30富岡駅発代行バスに乗る。バスは新築の復興住宅を抜け、程なく帰還困難区域に入る。取り残された街並みを窓外に見とめ、走行するバスと第一原発の位置関係をグーグルマップと線量計で確認する。

 

5.

2019年7月23日(火)。細く降りしきる雨の中を、仙台から常磐線各駅停車で南下する。現在、不通区間の浪江駅〜富岡駅間は代行バスが運行されているが、2020年3月末までに全線の開通を目指している。富岡から先は竜田→木戸と二駅だ。木戸駅17:15着。この場所はすでに懐かしい風景となっている。次の発車時刻まで1時間ほどある。

巨大堤防の工事もほぼ終わったようだ。福島から宮城、岩手まで全ての海岸線がコンクリートで固められる。堤防の上には真新しい県道が整備され、あとは運用に向けての植栽やガードレール等の整備が行われるだろう。一日の終わり。誰もいない堤防の上を歩き、福島の海を見下ろす。火力発電所の煙突が霞んで見える。雨のせいか波が少し荒れている。

帰還できぬままの廃屋は取り壊され、代わりに単身者用のアパートになった。窓から灯りが漏れテレビの音が聞こえる。駅前にビジネスホテルが建っていた。

 

6-1.

2019年12月10日(火)。駅前に新しくできたホテルから国道6号線に向かって少し歩くと、クリニックと接骨院の真新しい看板が見える。昨年3月に来た時はまだ壊れた家屋が残り人の気配もほとんど無かったが、今は住民の新たな生活がうかがえる。地元風情の理容院が再開し、日に焼けたサインポールが勢いよく回転する。

看板が取り外された建物がある。望遠レンズを覗くと楢葉南保育所と読める。敷地内はきれいに雑草が刈られているが、おそらくもう保育所として使うことはないのだろう。震災以前からの住民はみな高齢者だ。子供を持つ若い夫婦が故郷に戻るのはいつの日か。ここに至る時間は決して短くはない。震災から8年目となる今年2019年3月、自主避難者への家賃補助が打ち切られた。避難指示の解除時期は地域によって差があるわけだし、各々の心づもりというものがある。どこかで線引きをするにしても、住民ひとりひとりに寄り添ったきめ細かな政策決定が必要なのだ。オリンピックを前に期限を切った訳だが、それで真の復興と言えるのだろうか。

風景も大きく変わった。瓦礫の処理作業も終了し、仮置き場だった敷地の囲いは外された。積み上げられた黒いフレコンバッグの背は低くなり厚手のシートで丁寧に覆われている。その大量の除染廃棄物は、帰還困難区域にある双葉町や大熊町の中間貯蔵施設に運ばれるのだ。遠くに見えるのは広野の火力発電所。海岸線を覆い尽くす巨大堤防も完成。河岸はコンクリートで固められ、そこから美しい弧を描いて高い堤防に接続する。広野の火力発電所が見える。

 

6-2.

12月11日(水)。木戸駅近くに宿泊したのは、朝日が昇る福島の海を見たいと思ったからだ。空気は冷たいが、風も無く、耐えられないほどの寒さではない。駅から山田浜までは直線距離にして1.2キロ。途中からは街灯も途絶え、真っ暗闇をすり足でそろそろと歩く。目印も無い堤防の昇り口に迷う。

堤防に登ると、全方向ともに視界を遮る障害物はない。山側、駅周辺と国道6号線沿いには灯りが見える。厚い雲の隙間から僅かに紫色に染まる空が見える。

巨大堤防のすぐ下が海なのではなく、そこには使われなくなった旧国道が残っている。数メートルにすぎない低い防波堤は為す術もなく決壊した。ここで初めて津波の傷跡と対面する。古いテトラポットと、震災後に補強として置かれただろう新しいそれとが混在している。流木は最近のものか。この場所も最終的にはきれいに整備されるのだろう。日が昇ると、ジョギングをする男性の姿が遠くに見えた。12月15日にはハーフマラソンの大会があるらしい。人の暮らし。赤い小さな鳥居と祠、それから慰霊碑。周囲には何もない。そこに防災林が育つのだろう。

ふるさと
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9、楢葉町で最大震度6強の東日本大震災が発生。その後、大津波が何波にもわたって襲来。沿岸部では最高10メートルを超える巨大津波に襲われた。この地区に住む人々は、声を掛け合い・助け合って上ノ代の地区集会所へ逃れた。しかし、津波によりこの地域の25世帯の全家屋等が流失、一人の命が奪われた。更に、その後起きた福島第一原子力発電所の事故により、楢葉町全町民が町外へ避難せざるを得ない事態となった。その後、山田浜沿岸部は防波堤・防災林・県道の構築と復興が進み、震災前ここで生活していた人々はこの地に戻って住めない状況となった。
 古代よりこの地を生活の場としてきた住民は、全て他地域に新たな生活の場を求めることとなった。「ふるさとを失った・・・」 この地を去った人々の新たな歴史について、安らかな繁栄ある生活を願うとともに、東日本大震災の記憶を後世に伝え、今後大自然災害が起きないことを祈念し、この碑を建立する。

 

7-1.

2021年3月には東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から10年を迎える。去年の3月に常磐線全線の運転再開と聞き再訪の計画を立てていたのだが、コロナ禍の混乱で感染拡大地区からの移動は見送らざるを得なかった。2020年夏の開催が予定された福島の復興を謳うオリンピックも1年後に延期された。最初にこの地を訪れた2013年の晩夏から数え今回で7度目の訪問となる。

 

2021年2月18日(木)広野駅14:05。初めて広野駅を降りる。広野町はいち早く事故の翌年4月に避難指示が解除されたこともあり、町並みは落ち着いた表情を見せる。30分程歩くと小高い丘の上に風車が見える。地図上には二ツ沼総合公園と示される。広大な敷地を持つが人影は無い。空は晴れているが、はらはらと雪が舞う。やや朽ちかけた風車の外階段を登る。展望スペースは閉鎖中だったが火力発電所の煙突とその先の海が見渡せる。穏やかな風景だ。

福島県道391号広野小高線。津波被害があったはずだが今は綺麗に整備されている。広野町の国道6号交点から太平洋岸に沿って浜通りを北上する道路だ。緩やかな坂を登ると楢葉町、続いてJ ヴィレッジ駅の看板が目に入る。常磐線の線路は県道の下を潜るように北西方向に進む。Jヴィレッジは、駅から国道6号線までの広大なエリアを占めるサッカー・トレーニング施設で、原発事故の対応拠点として使用された。2019年4月、施設の全面再開に合わせJヴィレッジ駅も新設された。聖火リレーの出発地点だが、このコロナ禍で復興オリンピックの位置づけも霞んでいる。コロナに打ち勝った証としてのオリンピック?

 

ゆっくりと坂を下ると、ほどなく海が見える風景が広がる。山田浜、いつもの海だ。巨大堤防と福島の海。

 

7-2.

2021年2月19日(金)。朝5時にホテルを出る。凍えるほどではないが、夜明け前のぴりりとした空気に身が引き締まる。県道には一定間隔で街灯もあるのだが、車からもこちらの存在が見えるよう懐中電灯をつけて歩く。真っ黒な木戸川に架かる橋を渡り、ひとつ先の信号を右曲するとあとは目的地まで道なりとなる。街灯の本数が減り暗闇が多くなる。側溝にはまらぬよう足元を照らしガードレールに沿ってそろそろと進む。なだらかな坂道の途中に灯りが溢れる家があった。犬に吠えたてられる日常に少し驚く。道路舗装工事中の看板の脇を抜け、5時50分に天神岬スポーツ公園に到着。日の出は30分後だが東の空は赤く染まり始める。

展望台に登ってみる。岬の奥に隠れて建屋は見えないが、目をこらすと海に向かって細く張り出す防潮堤に気づく。北に約5km先にある福島第二原発4機については2019年に廃炉が決まっている。振り返えると海岸線が見渡せる。巨大堤防が連なる前原・山田浜地区。手前が木戸川の河口。ここから大津波が一気に流れ込む、まさにその瞬間の動画がある。堤防の後ろ側を廻って流れる山田川。正面に見える煙突は東京電力広野火力発電所。

 

木戸駅09:59発原ノ町駅行きに乗車。ここから竜田→富岡→夜ノ森→大野そして目的地の双葉駅へと向かう。双葉駅10:23着。駅を降りると右手奥に「東日本大震災・原子力災害伝承館行き」のシャトルバス。バスは「帰還困難地域」を抜け、10分ほどで目的地に到着。去年2020年9月22日に開館したばかりの建物だ。

隣接する産業交流センターで昼食を取る。食堂のスタッフと少し話をするが、伝承館の展示はまだ見ていないという。敷地の外には、津波の爪痕と時の重さに耐える建物がそのままの形で残されている。基礎だけが残る墓石の無い墓地に、一対の仏花が供えられている。ここもゆくゆくは復興祈念公園として整備される。巨大堤防の工事は続いている。にわかに風が強くなってきた。バスで双葉駅に戻る。常磐線上り列車、双葉駅14:24発。木戸駅14:50着。

 

ホテルに戻り、少し休んで気持ちを落ち着かせる。木戸駅とその周辺の変わりゆく風景をこの場所で思い出している。10年の時を経て、復興という言葉とともに土地の持つアウラは少しづつ失われていったように思う。午後4時半。強風に煽られながら巨大堤防の上を歩く。岩手、宮城、福島と連なる巨大な防潮堤の総延長は約395kmに及ぶ。竜田(楢葉町)でも富岡(富岡町)でも、そして今日訪れた双葉(双葉町)でも同じ風景だ。オレンジ色の陽光が風景のエッジを照らす。国道を忙しく走る車の音も強風に掻き消され、奇妙な沈黙の風景が現れる。

巨大堤防の上から浜に降りてみる。津波に削られた旧国道。腰の高さ程の防波堤。新旧のテトラポット。十字架状に組まれた木板が、海との境界に刺さっている。火力発電所が普段より近く感じられる。小さな鳥居は「津之神社河岸稲荷」と名前がついたようだ。「広報ならは」令和2年6月号には「海の安全を願う遷宮と穀物神の稲荷様が祀られている」とある。

 

7-3.

2021年2月20日(土)。昨晩小さな余震があった。

 

朝5時半、東の空が白み始める。昨日より少しだけ空気が緩む。始発前の踏切を渡り、前原地区を抜け山田浜までは20分ほどある。昼間は工事関係者以外には滅多に人に会わないが、今朝は巨大堤防の上を散策する人の姿があった。美しい風景。

「広報ならは」令和3年3月号によれば、楢葉町の地区ごとの居住者は、前原地区に48世帯96人、山田浜地区に40世帯90人、木戸駅周辺の下小塙地区では204世帯507人とされる。楢葉町全体でみると居住率は約6割。この居住率は原発作業員や復興工事作業員など新住民を含めて計算される。自分のブログによれば、2015年度末の前原地区の集計として「7世帯14名が帰還」とあった。この年の楢葉町全体の帰還率はまだ8.7%。帰還率の公表は2017年3月で終了している。

 

夜ノ森駅9:50着。夜ノ森は桜の名所だ。春になれば、満開の桜のトンネルに桜吹雪が舞う故郷に酔い、そこに集うのだろう。だが、このバリケードに仕切られたその先はいまだ居住が許されず、入口には常時警備員が待機する。帰還困難区域内にできた特定復興再生拠点区域の境界線を、その外周に沿って反時計回りにぐるっと廻る。道の左側には柵があり、右側には柵は無い。自分にはどちらも同じに見える。春の陽気と青空。黄色く朽ちて行く理想郷。閉じられたゲームの中で。

 

冷えた待合所でメールをひとつ書く。夜ノ森駅13:00発、原ノ町駅13:36着。同駅15:15発。仙台から来た上り臨時快速列車は、双葉駅も夜ノ森駅も木戸駅も停車せずに、いわき駅からそのまま特急列車となる。東京駅18:43着。

 

Stay out, stay home.

 

2021年

なかねひでお

 


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