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Japanese

『Kinderszenen Project』−子供の情景 プロジェクトの終了にあたって

中根 秀夫
暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。*1
−ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ

 

子どもがいちばん望んでいないものは大人が子ども用と考えるような描写なのだ。*2
−ヴァルター・ベンヤミン

子供の情景*3/Kinderszenen』というテーマは、ドイツの作曲家ロベルト・シューマン(1810〜1856)のピアノ曲作品15(1838年作曲)から借用した。ひとつのテーマで繰り返し作品に向き合う。小さな反復は気がつくと次の作品へ接続し、模索の過程が結果として小さなひとつのプロジェクトとなった。

ロラン・バルトは不慮の事故で亡くなる前年、マルセル・ボーフィスの『シューマンのピアノ音楽』*4に序文を寄せ、当時(1979年に出版されている)のフランスでの音楽的状況、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナーをあげている。確か日本でもマーラーなどが流行ったような気もする)を好む傾向に対し、シューマンの「私」に向かう音楽表現を「反時代性」の哲学だと評している。「シューマニアン(つまり反時代性をもった思想家)はドゥルーズとボーフィスと私ぐらいだ」とも書いたからだろうか、その後巷で(一部で?)シューマニアンが増えたこともあったようだ。自分のことを言えば、そもそもマルタ・アルゲリッチの弾くシューマンを聴いたのが浅田彰の『ヘルメスの音楽』*5を読んでからのこと(しかも文庫本になってから)で、とてもシューマニアンを標榜できそうにない。ただ、バルトが、そして浅田彰が言うように、「シューマンを自分で弾く私」が「真にシューマン的ピアニスト」なのだとすれば、『子供の情景』というテーマでの模索によって、ピアノを弾けない「私」でも、シューマン的な「何か」に指先で触れることができるかもしれない。

 

「子ども」。

シューマンを引き合いに出すまでもなく、この言葉は多くの誤解と幻想を生む。19世紀、ドイツロマン派において「子ども」は自らの魂を理想世界である宇宙に引き上げるための装置のようなもので、日常に生きる実体としての子どもではなく、「子ども」という抽象概念なのだ。『子供の情景』について、マルセル・ブリオン*6は「子どもの日常生活からの逸話風の曲集と誤解してはならない」と言う。20世紀に入り、現代の感覚で「子ども」に実体を与えようとする行為は、大衆がメディア化された時代において子どもを過度に評価する流行りとなった。ここ最近も、「子ども」をめぐる事件、事件をめぐる言説、さらには美術、映画、演劇、ダンスの主題、はたまたワークショップにいたるまで、「子ども」は流行りのひとつだった。どちらにしても「子ども」は大人が作り出した幻想なのだ。美しく彩られた風景。リリカルな。

 

リリカルな「親密さ」や「純粋さ」に対して多くの人が抱く関心。これはシューマンに対して抱く関心(あるいは逆説的には無関心)とも重なる。フランス七月革命(1830年)は、近代化の遅れたドイツにも強い影響をもたらした。シューマン自ら編集に携わる『音楽新報』における先鋭的批評活動は、当時の音楽にくすぶる因習に対するロマン主義的な方法論での立場表明であり、そうだとすれば彼自身の音楽の中に批評性が反映されないはずがない。ピアニストでもある年若い恋人に対するロマンティックでリリカルな愛のメッセージとして語られがちな『子供の情景』について、高橋悠治は「はるかな解放へのあこがれが、抑圧されたものの素朴なゆめへの共感としてあらわれる」*7と言う。

 

一方ボーフィスは『シューマンのピアノ音楽』の中で、シューマンの「狂気」を彼の曲の持つ「親密さ」や「純粋さ」と重ねることで彼の音楽を読み解こうとする。23歳のシューマンが「狂気」の前兆に相対してから20年後、43歳のシューマンは「狂気」の恐怖に取り憑かれてライン川に身を投げ、その後正気に戻ること無く2年後に精神病院で死を迎える。徐々に彼を蝕む「狂気」と、それと交錯する過程で生まれる音楽。

 

バルトは一見ボーフィスの考えに同調するかのようだが、「狂気」から「苦悩」へ言葉をすっと置き換えることで別の地平を開いている。シューマンは、自身の「苦悩」について「正確に名付けることのできない苦悩そのもの」だと言う。シューマンの、常に自己の「生」に隣接し常に深層部分で支配する来るべき狂気に対する「静かな」恐怖のことを、バルトは、「苦悩」の本質、狂える者の「苦悩」と呼ぶ。それは「健康な」人間が普通に考えがちな「狂気」、つまり不特定の他者に向けられた攻撃的な行為とは全く違ったものであることは言うまでもない。外界に対する「闘争」や「葛藤」のようなかたちでの社会的な行為というのは、そもそも「健康」な者の発想であって、逆に「親密さ」や「純粋さ」は「狂気」と相容れないものではないのだ。

 

覚えていることはあまり多くない。ある定時制高校で美術講師をしていた時のこと。彼女が紫を基調とした色面構成をしていたこと。絵の具セットのカーマインとウルトラマリンを混ぜても、彼女の着ているワンピースの深い紫色にはならないと伝えたこと。彼女が「わたしがんばってるよね?」と問いかけたこと。年が明け、新しい学期が始まる二日前、彼女がマンションから飛び降りたこと。

定時制のその高校では、その後も二人の生徒が死んだ。ひとりは暴走族に追われ、バイクで警報音の鳴る踏切の遮断機をくぐって。もうひとりは浴槽の中で手首を切って。実体としての子どもが危機的な状況に陥るのは、彼らが大人の作った幻想の子どもという概念に取り込まれることだ。それはドゥルーズの言う「カオス」だ。少なくとも彼ら自身にとっては。

 

「子ども−になること」*8そして「狂人−になること」。それらは未来へ、宇宙への逃走線だとドゥルーズは言う。だがそれはいつも危険をはらんでいる。

 

ヴァルター・ベンヤミンの『1900年頃のベルリンの幼年時代』*9は、冬の午後に窓から差し込む光が白い壁に移ろうような文章だ。だがその美しさは、「故郷/幼年時代」に対する「憧憬」の感情を、「社会的な回復不可能性にまなざしを向けること」によって意識的に排除することでこそ生まれるのだ。ベンヤミンがドイツロマン派から研究を始めたことを思い出さねばならない。ヒットラー政権が樹立する1933年、ユダヤ人であるベンヤミンは、もう帰ることがないだろうという予感とともに故郷ベルリンからパリへの亡命を決意する。そして1940年パリが陥落し、スペインへの逃亡中に服毒自殺をする。「子ども/幼年時代」は逃走線なのだ。逃避ではなく。「子ども−になること」。

 

実体としての子どもが大人になりそこなうのは、「子ども」になりそこなうことでもある。しかし、単に大人になることも「子ども」になりそこなうことだとも言える。では、大人は(仮に大人になれたとすればだが)大人として子どもに何をなすべきなのか。無論「何をなすべきか」の答えなど無いのだが、大人が「どういう姿勢で子どもに対するか」については答えることができよう。ベンヤミンは『教育としての遊び』のなかで昔の子どもの本について「重苦しくて不自然なまじめさであっても、それが誠実に素直に心から発せられたものであれば、子どもはきちんと感じることができる」と述べている。ベンヤミン自身が子供に向けて語るというかたちをとったラジオ番組*10には、まさに彼のそんな姿勢そのものがうかがえる。そして、やはりどうしても思い出しておきたいのが、シューマンが作品68『子どものための小曲集』に添えた「音楽の座右銘」*11という文章だ。そこにはかつて『音楽新報』でみせたようなテクニカルな批評性は影を潜め、ただただ真の誠実さをたたえている。「狂人−になること」。それは彼らの生真面目さ/誠実さ以外のものではありえない。少しだけ回り道をしたが、どうやらシューマンに戻ってきた。

 

バルトはシューマンに自身とどこか重なる部分を見たようだ。「シューマンへの愛の表明は、ある意味で、今日、時代に『逆らう』ことで、責任ある愛でのみ可能である。社会的命令によってではなく、自ら望んでシューマンを愛することは、主体に自分の時代に生きていることを強く自覚させることになる。」私が上に引いた何人もの先輩たちは、皆この「責任ある愛」を携えてきた。それは「子供の情景」というプロジェクトの中で、私が指先にかすかに触れることができた大切な「何か」だと思っている。

 

2004年

なかねひでお

 

 

  1. ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』河出書房新社、1994年。 該当部分は「1837年−リトルネロについて」宮林寛訳
  2. ヴァルター・ベンヤミン『教育としての遊び』丘澤静也訳、晶文社、1981年。ベンヤミンについて意識するきっかけとなったのは、丹生谷貴志の「来るべき子どもたち」である。「ユリイカ」2002年12月号、特集「ベンヤミン」青土社
  3. 「子供」の表記は、現在「子ども」のように書く場合が多い。「子どもの権利条約」に日本が批准したのが1994年(締結は1989年)だから、ユニセフ訳のこの表記方に倣うようになったのかもしれない。シューマンのCDでは一般的な『子供の情景』の表記に従いタイトルとして「子供」を使用することにした。
  4. マルセル・ボーフィス『シューマンのピアノ音楽』小坂裕子・小場瀬純子訳、音楽之友社、1992年。バルトは原文の第2版出版に際し「シューマンを愛す」を寄せている(なお、ボーフィスの書いた初版は1951年に出版)。「シューマンを愛す」は『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984/1998年にも収録されている。
  5. 浅田彰『ヘルメスの音楽』ちくま学芸文庫、1992年
  6. マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』喜多尾道冬・須磨一彦訳、国際文化出版社、1984年
  7. 高橋悠治『ロベルト・シューマン』青土社、1978年。現在ではwebサイト『水牛』で読むことができる。 http://www1.netsurf.ne.jp/~mie_y/suigyu/hondana/schumann01.html
  8. 子ども−になること」"devenir-enfants" の訳は丹生谷貴志の「女となること」"devenir-femme"を参照した。「造成居住区の午後へ」p.124『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社。
  9. ヴァルター・ベンヤミン「1900年頃のベルリンの幼年時代」『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1997年に収録。最終稿として付け加えられた序文にこの部分がある。
  10. ヴァルター・ベンヤミン『子どものための文化史』小寺昭次郎・野村修訳、晶文社、1988年、に放送原稿がまとめられている。
  11. ロベルト・シューマン「音楽の座右銘」『音楽と音楽家』吉田秀和訳、岩波文庫、1958年

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