2011~2012

展覧会めぐり日記 02

中根 秀夫 Hideo Nakane

展覧会めぐり日記01

 

 

雑感 - 『フェルメールからのラブレター展』

Bunkamura ザ・ミュージアム

年の瀬の慌ただしい時間を縫うように『フェルメールからのラブレター展』には多くの人が訪れていた。「手紙」を巡るフェルメールの3作を熱心に見つめる人たちの頭越しにそれを眺めながら、言い表わしようの無い気持ちがこみ上げてくるのを感じていた。

 

3月の震災から1週間後、ただただ怖くひとりで家にとどまることができず、向かった先がここ渋谷のBunkamuraで開催されていた「フェルメール展」だった。あるいはどこでも良かったのかも知れないが、その時の自分にはそこしか思い浮かばなかった。観光客がごっそりと抜け落ちた渋谷の街。デパートの照明は暗く落とされ、ブランドショップが並ぶ店内に買物客は皆無であった。そして人影もまばらな展覧会場でフェルメールの《地理学者》をただ呆然と見つめていた自分がいた。そして9ヶ月後の今、あの時と同じBunkamuraのこの場所に立ってフェルメールの《手紙を読む青衣の女》、《手紙を書く女》そして《手紙を書く女と召使い》を眺めている。

フェルメールが生きた17世紀のオランダは海上貿易の繁栄に支えられた国家であり、オランダでは男性労働従事者の10%が船上や海外で働くことを余儀なくされていたという。だからこそ「手紙を書く」という行為は、遠く離れた人と人を繋ぐコミュニケーションのメディア(媒体)として市民の日常のなかで大きな比重を占めるのだ。手紙を書く者がいれば読む者もいる。それは単なる情報の行き来ではなく、言葉に埋め込まれた「感情」と、言葉から立ち上がる「感情」を伝え合うメディアである。

グーテンベルクの大発明は文字による情報伝達効率を飛躍的に高めた。それはもちろん一方向への限られた情報伝達であったが、副次的にはそれは市民への教育として、情報を理解するための文字の「読み書き」の普及につながる。この「読み書き」の普及により初めて「手紙」という形の、距離を超えたコミュニケーションメディアが市民レベルで獲得されるに至る。手紙というのは双方向の情報伝達が前提である。ただしやり取りの本体だけが重要なのではなく、手紙を書く側にも読む側にも、そこに相手の生活とは切り離された自分個人の「時間」が存在するところにその意味がある。フェルメールは「光」の画家として知られているが、彼はこの「時間」を描いた画家でもあるのだ。恋人からの手紙を読む「時間」。恋人への思いを綴る「時間」。その「時間」の中に見る者の視線と情感を滑り込ませる。

もっとも、フェルメールのすごいところはその時間の「幅」を画面上で構築するところにあると思う。《手紙を書く女と召使い》の中で、女が手紙を書くに至るまでにどんなドラマがあったかを伺い知るモチーフが、随所にちりばめられている。それは召使いの女の視線であったり、床に投げ捨てられた手紙であったり、あるいは美術史的な知識を求めるならば壁に掛けられた絵画《モーセの発見》にもそれがあるだろう。しかしもう少し慎重に画面の構造を追えば、奥の絵の額縁の縦のライン、白く薄手のカーテンのライン、そして手前の暗緑色のカーテンの作るラインが微妙な角度で流れることで不安定な絵画空間を作り出し、その内部に上述の細々としたモチーフを機能させることで、彼女自身に流れる不安定な「時間」の波と、現在の彼女の決意を孕んだ「時間」とをシンクロさせることを絵画上で実現しているのではなかろうか。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、ものを作る側の人間である私にとって、あの地震と津波、そして原発事故はあまりに大きく自分にのしかかって来た。今まで見て来たもの、信じて来たこと、それらが一瞬のうちに崩壊し、跡形も無く押し流され、そして今まで疑いこそすれ本気では考えないで来た恐怖に苛まれ、それらのことと「美術」との折り合いが自分の中で全くつかなくなってしまった。「美術」にできることは何か。いや、そもそも「美術」とは何なのか。制作が手につかない中で、そして今日に至るまでの9ヶ月の間、私が多くの展覧会を見ながら考えて来たのは「美術/絵画」の「力」についてだ。例えばフェルメールが「絵画」という双方向のコミュニケーションメディアを使って現在の私たちに呼びかけること。「絵画」は一方向のメディアではなく「手紙」なのだということ。送り手である私たち美術家ができることは丁寧に言葉を綴り「手紙」にしたためることであり、いつ戻ってくるか知れない相手からの「手紙」を待つことだけなのではないだろうか。「美術の力」を信じながら新しい年を...。

 

[12/31/2011]

ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト
―写真、絵画、グラフィック・アート

神奈川県立近代美術館 葉山館
展覧会ホームページ

ウォーカー・エヴァンスのニューヨーク近代美術館での展覧会の際に刊行された作品集『アメリカン・フォトグラフス』(1938年)を見ている(といっても廉価なファクシミリ版だが)。1929年の大恐慌の後、エヴァンスはニューディール政策の一環である農業安定局 (FSA) の南部農村の撮影プロジェクトに参加している。プロジェクトの主旨は農村の惨状と復興の記録だが、その写真は同時に国家側からの政策のアピールという意味合いも含んでいた。

もっともエヴァンスの『アメリカン・フォトグラフス』はドキュメンタリー性を希釈し、農村の撮影もニューヨークでの撮影も区別無くアーティスティックな感性で写真集を構成している。被写体と自身との関係に距離を置き、どちらかと言えばそれはアメリカという「土地」に対するロマンティシズムを彷彿させる総体となっている。エヴァンス自身がドキュメンタリーという言葉を懐疑し、それを「ドキュメンタリー・スタイル」と言い換えた点も記憶しておくべきかもしれない。

さて、そのFSAプロジェクトにベン・シャーン(1898~1969)も参加していた、というのがこの『ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト』という展覧会の出発点になる。実はそのベン・シャーンの写真6000点以上がハーバード大学付属フォッグ美術館のアーカイブで閲覧可能だ*。エヴァンスとの対比としてそれを見るならば、ベン・シャーンの眼差しの先にはいつも「人間」が見えているということに気づくだろう。そのことは逆に人影のない家屋や塀を撮った写真にこそ顕著であり、その写真には「人の気配」もしくは「人間の不在」として「人間」が存在しているのだ。

ベン・シャーンは1898年に帝政ロシア領リトアニアのユダヤ人居住許可地域で生まれ、1906年に迫害を逃れてニューヨークのブルックリン地区に移り住んだ。周知のようにアメリカは移民の国だ。なかでも1890年代以降第2次大戦までのイタリア、ユダヤ、ポーランド等、スラヴ民族の移民は「新移民」と呼ばれる。つまりベン・シャーンは「新移民」としてのアメリカ人なのだ。そもそも自らの国を棄てた移民にとって新しい土地に愛着があろうはずが無い。FSAプロジェクトでの彼の興味が、南部の農村の「人間」であったのは至極当然であろう。それに対しエヴァンスはミズーリ州出身の「アメリカ人」だ(ミズーリならばアイルランドからの旧移民かもしれない。いずれにせよネイティブアメリカン以外、アメリカ人は全て移民なのだが...)。個人的には近代アメリカ美術の抱えるロマン主義的ナショナリズムがアメリカの「国土」に依存しているという印象を持っている。その点「新移民」であるベン・シャーンが共感できるとすれば、その「国土」ではなく自らの周りの「人間」であろう。そして彼の一番の特徴はその人間を愛することができる、という点にある。

《解放》(上)は第2次大戦中のフランス解放の知らせを受けて描かれたという。赤茶色の柱、おそらく運良く爆撃が逸れその場に偶然残されたのだろう、そして女の子3人が梯子状のひもにぶら下がり遊んでいる。背景には崩れかけ倒れかけた建物、そして瓦礫。硬直した少女の表情が印象的だ。戦争による破壊。だが、私たちはその画面に、そしてそれは逆説ではあるが、単なる問題提起としてのソーシャル・ドキュメンタリー以上の、孤独や無念、悲しみを抱えた人間に対する「愛おしさ」を受け取ることはできないだろうか。政治的な主題である「サッコとヴァンゼッティ」や「トム・ムーニー」らの冤罪事件を巡る作品も、またスーパーマーケットのかごを描いた版画でさえも、ベン・シャーンの眼差しの奥にある人間の尊厳へ敬意や人間の生活へ共感を強く感じるだろう。

展覧会図録に再録された1962年のインタビューの中で、ベン・シャーンは自分を「最もアメリカ的な芸術家のひとりだと思う」と答えている。実は1940年代から50年代には、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらによる抽象表現主義と呼ばれる絵画が「アメリカの絵画」として、それはかなり戦略的にせよ、その広大なアメリカ的「国土」を想起させる、そしてロマン主義的ナショナリズムの系譜と言っても良いだろうスタイルの絵画が全盛を迎えた時代だった。しかし移民の国アメリカに戦後さらなる移民が流入する中、ベン・シャーンは確かにアメリカという国の「良心」を体現する芸術家なのだと思うのだ。

*ベン・シャーンの写真はリンク先サイト内Browse Our CollectionsのボックスにBen Shahnを入れてサーチしてください。

追記

昨今では、「美術館は展覧会を企画するところ」という定義も、必ずしもそうとばかりは言い切れず、広告代理店が仲介するパッケージを購入して開催する展覧会は少なからず存在する。それはそれで、例えばフェルメール好きの日本人には有意義なことであり、かつ美術館としても安定した収益を上げることができ、内容もそれなりに充実していると言えるだろう。しかし、そもそも展覧会の企画は美術館の存在意義に関わる切実な問題なのだ。美術館は美術作品を収蔵し、展示し、研究し、教育普及活動を行う機関である。だがそれは単に美術館の業務内容の紹介であって美術館の「役割」では無いはずだ。ではその「役割」とは何か。それは美術に対して、そして今を生きる私たちに対して「問い」を立てることだ。

おおまかに言っても、展覧会は構想10年、そして展覧会の準備が動き出してから3年~5年の歳月がかかる。出品作品の選定、相手美術館との交渉の過程を経て最終的に形になるまでの労力すべてが展覧会の形となって現れる。もちろん最終的にそれらの作品を美術館の部屋のどの場所にどの順番で展示するのか、どういう導線で観客を誘うか、どんなキャプションをつけるか、照明をどうするのか、さらには展覧会図録を作成し、関連企画として講演会やワークショップ等々、それら全てが数名の担当学芸員の手で行なわれる。

2011年は震災の年であった。展覧会の開館時間が短縮されるのはまだ良い方で、『クレー展』でも出品されるべき数点の作品が来なかったし、豊田、鳥取、葉山と巡回するはずの『ジョルジョ・モランディ展』のように展覧会自体がポシャってしまったことすらある。そんな中、今回の『ベン・シャーン』は福島を巡回地に含み(というのも福島県立美術館はベン・シャーンを多く所蔵する美術館だからだ)、作品を所蔵するアメリカの美術館とのギリギリの交渉の末に開催できた展覧会なのだと聞いている。

『...この感情は、地球が、結局はそのうえに住むあらゆる人々のものである、ということなのです。したがって、どんな人間も、またどんな人間のグループも、地球のどの部分にせよ、それを生存不能の場に化する権利をもっていません。同じ論旨によって、どんなひとにも、どんなグループにも地球の食物をだめにしたり、地球の空気をよごす権利はないのです。』 ー(ベン・シャーンの言葉。展覧会図録より引用)

これは核実験に異を唱えるシャーン1962年の発言だが、もう一度読み返してみれば、これは2011年の現在の私たちの心にも強く響く言葉であるはずだ。そして彼の絵画、版画、写真が2011年~2012年にかけて「日本にある」ことは、今を生きる私たちに対しての「問い」そのものであり、それを支える美術館の展覧会と学芸員の存在と役割を改めて問い直すべき時が来ていることに気づくと思う。

[12/19/2011]

南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎

サントリー美術館
展覧会ホームページ

ポルトガルから鉄砲が伝来したのが1543年、それから6年後フランシスコ・ザビエルが日本に上陸する。その後徳川家康によってキリスト教禁止令が発布される1614年に至るまでの16世紀中頃から17世紀初頭にかけての一時期は、文化的にも経済的にも日本にとって大きな変化の時代であった。秀吉も信長も南蛮貿易を推奨しキリスト教の布教についても寛容であった。

時は大航海時代、ポルトガルとスペインはアジアにその勢力を広げており、一方でカトリック教会は新教プロテスタントが躍進するヨーロッパで自らの手による刷新と改革が行なわれ(トレント公会議が1563年)、その地位の回復のためアジアでの布教を目論んでいた。海外に渡る宣教師たちは本国国王から経済的な援助を受けているが故、貿易と布教活動は実質的には切り離し得ないものでもあったということは重要である。1580年になるとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王を兼ねスペインはポルトガルを支配下に置く。しかしそのスペインといえどもイギリスからはその地位を脅かされつつあり、また国内でも異端審問の強化が逆に自分の首を絞め次第にその国力を落としていく。その後はオランダがスペインから独立、17世紀はオランダの黄金時代となる。世界を巡る覇権争いの最中で、日本という国は意外に器用にヨーロッパ諸国と渡り合っていたと言えよう。

何はともあれ『南蛮屏風』、その制作を手掛けていたのは主に狩野派の絵師であった。狩野派は御用絵師として室町から江戸までの日本美術の正統として君臨してきたわけだが、そんな狩野派がどんな心持ちで南蛮文化を描いたのか興味深いところだ。この時期、秀吉は朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に築城する訳だが、同行の絵師たちが長崎の地で南蛮船や南蛮人の風俗に触れたことがそもそも『南蛮屏風』制作の始まりだと言われている。今回出展の屏風にも狩野孝信、内膳、山樂らの名が見られ、その多くはキリスト教の弾圧後も近代に至るまで古くからの商家などに残っていたものである。

正直を言うと、私自身『南蛮屏風』など狩野派の歴史に於いてはキッチュな二流風俗画だろうと思っていたのだが、なかなかどうして絵画としての完成度の高さには目を見張るものがある。まずは画面自体が驚きと感動に満ちており、当時の一流絵師たちがその地の風俗に並々ならぬ興味を持っていたのが伝わってくる。それはそうだろう。日本人にとって南蛮文化は見るもの全てが新しい、まさに未知の世界なのだ。人目を魅く南蛮寺とイエズス会・フランシスコ会の宣教師、商館のカピタンら南蛮人たちが街を闊歩する。巨大な南蛮船とそこで働く船乗りたちに数々の交易品。洋犬に西洋種の馬、さらには象の姿までがその地の風景となり、街の華やかな賑わいに見る者の興味は尽きない。背景として描かれる樹木や波の表現ひとつを取っても高い技術が駆使されており、金雲の下地に盛り上げを使って装飾を施しているものまである。保存状態も非常に良い。

本題と言えば今回は《泰西王侯騎馬図屏風》なのだが、こちらは狩野派の描く風俗画とは全く違う概念で描かれた『初期洋風画』である。日本で順調に信者を獲得するイエズス会はセミナリヨ(神学校)で日本人聖職者を育成するとともに、ジョバンニ・ニコラオの指導のもとセミナリヨ画学舎で油彩画、水彩画、銅版画などを制作するようにり、遠近法や陰影法など基礎的な西洋絵画の手法が初めて日本に伝えられた。当時、その画学舎はアジア最大級の西洋絵画育成機関であったともいわれる。

《泰西王侯騎馬図屏風》は右隻と左隻をサントリー美術館と神戸市立博物館とに分けて収蔵されており、ともに四人の王侯の騎馬像が描かれている。今回それが揃って展示されているを見て、実は本題から少しずれるもののどうしても気になってしまうことがあるのだ。それは神戸市博の方が「四曲一隻」(四つが一連なりの屏風だということ)なのに対しサントリーの方が「四曲一双」(四曲が一組、つまり八面)になっているということだ。もちろんこれは後世になって表装し直す時に起きてしまった事件(?)なのだろうれども、要するに神戸市博の方は騎馬像ひとつが一曲に配置され本来の形をとどめているのに対し、サントリーの方では騎馬像の画面の真ん中を切って一人分を二曲の屏風で仕立ててしまったということである。現代の我々からすれば事の次第に唖然とはするが、この時点ではまだ重要文化財でもなくただの屏風なのだから致し方ない。そもそも《泰西王侯騎馬図屏風》の方が日本の屏風の規格に合っていない、つまり日本の家屋の形態を考えて作られてはいないから悪い(?)のだ。

さて西洋絵画的な比率の画面で描かれた騎馬像を屏風状に組み立てようと考える時点で、それはもはや日本人の発想ではない。そこでは当時の日本では考えられない遠近(図法的にはやや難があるが)や陰影の表現が駆使されている一方、画面に使われている素材は日本画の岩絵の具であるという折衷も興味深い点である。画題や画材を考えれば当然セミナリヨ画学舎で日本人によって制作されたものだろう。専門絵師集団の手による『南蛮屏風』とは違い、《泰西王侯騎馬図屏風》の方は洋風画/日本画の枠以前に技術的に素人臭さが目立つものの、やはり「信仰」が表現の芯にあるからだろうか、画面は何か絵画的技量以上の「強さ」に満ち満ちている。狩野派の絵師達が触れた南蛮文化の魅力以上に、キリスト教徒である彼らにとって画学舎内での教育の総体である西洋文化とキリスト教文化に対する畏敬の念が画面にほとばしるのを感じ取ることができよう。彼らにとっても《泰西王侯騎馬図屏風》の制作は非常に重大な任務だったに違いない。

残念なことにキリシタンへの弾圧とともにこれら西洋絵画の礎はついえてしまうのだが、いくつか残る画学舎発とみられる素朴な味わいの洋風画(見ようによってはブリューゲルの絵画のようでもある)、まだ見ぬ西洋の風景や風物に思いを寄せ、彼らの理想を湛えた画面にはまた格別なものがある。『初期洋風画』にせよ『南蛮屏風』にせよ、何故か私たちの心に絡み付いてくるものがあってそれは何なのだろうといつも思う。この年になってなんとなく解ってきた「歴史」というものかもしれない。日本のことをふまえ改めて同時期の西洋の画家を捜してみるとギリシャ生れでスペインに渡ったマニエリスムの画家エル・グレコ(1541~1614)などが浮かぶ。

[12/7/2011]

モダン・アート,アメリカン
―珠玉のフィリップス・コレクション―

国立新美術館
展覧会ホームページ

自分のような世代で「現代」から美術を始めた者にとって、現代美術と言えばまずは戦後アメリカのポロック、ロスコ、ニューマンなど抽象表現主義と呼ばれる動向であり、その後ポップアート、ミニマルアート、コンセプチュアルアートへと続く一連の流れであり、その「戦後アメリカ美術」と「フランス美術」(印象派からフォーヴィズム、キュビズムへと連なる)との連結点として1913年の歴史的美術展「アーモリー・ショウ」があり(特にデュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》は嘲笑的に注目された)、あるいは1940年代にナチスドイツに追われたシュルレアリストら移住組が正統西洋美術の本流をアメリカへとシフトしたという、単純かつ恣意的な理解がなんとなくまかり通っているのはある意味で不思議なことだ。

そのような認識のもとでは、例えばジョージア・オキーフやエドワード・ホッパーら近代アメリカ美術つまり『モダン・アート,アメリカン』の巨人も、1945年を起点に過去にさかのぼる形で、西洋美術の流れの「欄外」に位置づけられてしまう訳だが、当然のことながらそれは正確ではない。アメリカの近代がどのように形成され、それがどのように戦後アメリカ美術に影響を与えたのかを考えること無くして、やはりアメリカの現代美術は語れない。

とりあえず考えなくてはならないことは近代アメリカの持つ独自のロマン主義的ナショナリズムの傾向だろう。新しい国であるアメリカは、19世紀末には鉄鋼、石油などの分野で経済的に躍進し世界一の工業国になる。新しい国の成功者たちは西欧の美術品を積極的に収集するようになり、それが現在でもアメリカに脈々と続く個人コレクター文化であり、その代表が「フィリップス・コレクション」のダンカン・フィリップスであり、ロックフェラー、グッゲンハイムらの大富豪であるのだが、彼らの通底した感覚として、その世界一の国アメリカにふさわしい「文化」への渇望があったことは間違いない。それはかつて19世紀ドイツから始まったロマン主義(それは同時代の英仏の経済的興隆に対するドイツという「国家」への渇望であったりする訳だが)と構造的にはほとんど違いのない、ある強度を孕んだ愛国へと結びつく。「フィリップス・コレクション」といえば、2005年に開催された超教科書級の「西洋美術」作品が六本木ヒルズに集結した展覧会を思い出すが、ダンカン・フィリップスというコレクターはただ文化的先進国である西欧美術礼賛にとどまること無く、同時代のアメリカの画家を育てるという意味で美術の最新の動向を捉え西欧から作品を購入し、またアメリカという国に「アメリカの」近代絵画を認知させるために彼らを経済的に支え作品を収集した。その成果が今回開催の『モダン・アート,アメリカン』展にあると思うと非常に感慨深いものがある。いずれにせよアメリカ絵画が根底に抱えるロマン主義的傾向は実はこの時代の状況から派生している。

直感的に言えばアメリカに於けるロマン主義の対象はその広大な「国土」にある。ジョージア・オキーフの描く風景は言うまでもなく、花、骨などの代表的なモチーフもアメリカという土地に根ざしたものである(オキーフについては彼女のパートナーである写真家アルフレッド・スティーグリッツとの関係は切り離せないが、そのあたりは近代写真史をも含んで考察するべき問題になりそうなので今は触れないでおく)。その点では近代アメリカ美術は、ドイツの自然から「崇高」の概念を引き出したドイツロマン主義の継承者となり得る資格は充分にある。抽象表現主義のヘレン・フランケンサーラーやロバート・マザウェルの大画面からも、アメリカの大自然を思わせる「崇高」を感じ取ることができよう(もちろん抽象表現主義にはアメリカ固有の状況、例えば連邦美術計画やメキシコ壁画運動を考慮する必要はあるだろうが)。もしアメリカロマン主義美術というカテゴリーが存在するとすれば、近代以降も例えばアンドリュー・ワイエスの作品に連結可能だろうし、さらに現代美術の枠組みの中には1970年代のランドアート、ロバート・スミッソンやウォルター・デ・マリアまで受け継がれる概念だとひとりで妄想してみたりもするのだ。

追記:もう一方でエドワード・ホッパーの絵画が湛える都市生活への不安は、さらに別の方向のアメリカ美術として現代に引き継がれているはずだ。

[10/21/2011]

没後100年 青木繁展 ーよみがえる神話と芸術

ブリジストン美術館

没後100年を記念し『青木繁展 ーよみがえる神話と芸術』が開催されている(石橋美術館→京都国立近代美術館→ブリジストン美術館と巡回)。

青木繁の展覧会と言えば2003年に『青木繁と近代日本のロマンティシズム』展がありこちらは東京国立近代美術館→石橋美術館と巡回された。比較的短い間隔で回顧展が開催されるのは青木の高い人気を示すとともに、石橋財団が重要文化財でもある《海の幸》と《わだつみのいろこの宮》を含む多くの作品を所有するからであり、同館のもつ研究機関としての美術館機能を充分に生かした企画だといえる。

青木繁(1882-1911)は明治後期に生きた夭折の天才画家と言われる。東京美術学校在学中の1903年、21歳で白馬賞を受賞し画壇デビューをはたし、翌1904年に仲間とともに布良の海に取材をした代表作《海の幸》を発表(結局はこの年が青木のピークとなる)。1907年の東京府勧業博覧会で自信と期待を込めて発表した《わだつみのいろこの宮》は3等末席に終わり、同年、父親の危篤で故郷久留米に戻る。その後は不遇のまま九州を放浪し1911年に28歳で死去。画家としての活動もわずか7年程の短い生涯を終える。

周知のように明治に入り西洋から近代化がもたらされると同時に日本美術の近代も始まる。1876年には西洋美術教育を専門に行なう工部美術学校が開校。「美術」は国策として日本の近代化への必須「技術」と捉えられた。しかし急激な近代化への反動もあり工部美術学校も1883年で閉鎖、その国粋主義的な時代の空気は1889年の東京美術学校の設立にも及ぶ。岡倉天心(およびフェノロサ)が率いる東京美術学校は日本画・木彫・工芸の三科のみで開校し、当初は西洋美術の講座は無かったのだ。西洋画科が開設されるのは5年後の1896年からで、そこにフランス帰りの黒田清輝が教官として赴任する。

黒田はフランスでサロンの画家ラファエル・コランに師事している。パリでは印象派の画家達が活躍していた時代に黒田が敢てこの師を選んだのは、後に貴族院議員に至る輝かしい出世の道にはこの経歴が不可欠だったからだろう。画家としての彼はコランの画風(印象派の影響を受けた折衷様式)を受け継ぎ「外光派」を主導する。もちろん黒田は東京美術学校では青木繁の指導教官にあたり、また白馬会の創立メンバーでその後の西洋画壇に大きな影響力を持つ男だ。こんなガチガチのアカデミズム崇拝者を青木が面白く思うはずも無い。

さて青木の資質は基本的に「素描」にある(これは関根正二と比べてみれば明らかだ)。色彩よりは線が生きる《海の幸》はまさに典型的な素描絵画だ。ただ問題はこれが作品として「未完」かどうかである。現代の美術の基準からみればこの絵を未完成と見なす者はいないだろう。青木本人はもちろん「完成作」として白馬展に出品したはずだ。しかし黒田清輝が画壇に君臨するこの時代、描線は色彩を形態としてしっかりと支える要素のひとつに過ぎない。《海の幸》が当時から高く評価を受けた一方で反発も大きかったことは頷ける。世はそれを「未完」と見なしたわけだ。展覧会後、青木は《海の幸》の画面中央の女性(恋人の福田たねといわれる)の顔に加筆する。現代の私たちからすれば過剰にも思えるこの加筆は、少なくとも青木自身が自分の作品の「未完/欠落」をどのように捉えていたかは伺える。

そして、その時点から「未完」部分を克服すべく青木の迷走が始まる。例えばそこにラファエル前派のエドワード・バーン=ジョーンズが引き合いに出される。19世紀イギリスのアカデミズムに異を唱えるラファエル前派は、青木の「気分」に通じるものがあったのだろう。美しい素描に加え色彩感覚豊かなバーン=ジョーンズは青木の目指すところではあるが、その色彩の湛える「色気」のようなものに青木は通じていなかったように思える。さらに青木は多くの西洋画家の表現要素を自分の絵に組み入れようともしている。海景表現に於けるモネはその典型だが、ラファエル前派から象徴主義、そしてオリエンタリズムなど広く19世紀ヨーロッパの動向を模し、また見ようによってはセザンヌやクールベ、C.D.フリードリヒすら想像させる、総じていえばやはりロマン主義傾向に繋がっているように見える。

ロマン主義はナショナリズムと親和性を持つ。例えば1904年日露戦争での日本の勝利はその時代の空気を物語る出来事だろう。当時は青木も含め日本画家・洋画家ともに日本の古代の神話や歴史を画題にしている。ナショナリズム(国粋主義という方が相応しいか)特有の傾向だ。この先は私の妄想的自説だが、このロマン主義/ナショナリズムはある種の「欠落」部分に強く感受する。(これも想像に過ぎないが)青木の晩年の行動から見ても何か親子関係に「欠落」的要素があったようにも思える。青木のように無意識の「欠落」部分が多ければ多い程、人はロマン主義的深みにはまっていく。さらにそのロマンティシズムはナショナリズム的連帯感を伴い外部へと伝播する。青木に対する賞賛もこの時代における「未完」なるロマン主義に触発される部分が多いと思うのだ。

7年の画業、28年の人生では短すぎた「未完」の克服。しかしながら、それはそもそも克服可能なものだったのかと問うてみたい。何故ならばこの「未完/欠落」は今後日本美術に於いて広く受け継がれていくことになるからだ。

*↓なお、前回2003年の展覧会で《海の幸》について興奮気味に書いた拙「日記」を追記部分に再録した。
追記

参考『青木繁と近代日本のロマンティシズム展』

(2003年の展覧会めぐり日記の採録・東京国立近代美術館、石橋美術館)


1904 年。 青木繁(1882~1911)東京美術学校に在学中、22 歳。白馬会にあの《海の幸》を出品し、彼の名は広く世に知られることとなる。意気揚々と、自信にあふれて。青春...? ただし、センチメンタルなイメージを作品に結び付けることで作品について語ることはあまり意味があるように思えない。《海の幸》が私達にもたらす絵画的効果自体について考えてみたい。

青木によれば、この絵の中の裸の群像は、房州布良(千葉県館山市)の地元の神社に伝わる 海人の伝説に触発されイメージ化したものだという。この《海の幸》の画面は地元の漁の光景 を描いたわけではなく、あくまでも目の前にある布良の海と、青木のイマジネーションによる 海人の行進を重ね合わせたもので、いわば青木はこの画面に 2 層の構造を持たせているのだと は言えないだろうか。

  1. 海、そして打ち寄せる波を見ている。すると、
  2. 青木の想像力は目 の前に漁を終えた海人のイメージを生み出す。

1.の行為が 2.のイメージに置き変わったもの、 それを青木とともに、私たちも画面として認識している。

画面の群像は歩いている。少なくとも私にはそう見える。それは関根正二の《信仰の悲しみ》の画面が信仰の悲しみという状態を表しているのとは違う。《海の幸》の画面は歩くというイメ ージの持続を私にもたらしているのであり、逆に言えば、そのイメージが私の頭の中で持続し ている間は裸の彼らは「歩いて」いる。さて、青木の想像力が 1.→2.へと移動した後はどう なるのか。当然、1.の誰もいない海に戻るだろう。想像力の内部にいる間は絵など描けない。つまり、この後、何らかの形をとって海辺の群像は消えてなくなるわけだ。彼らは画面の左端に抜けるのか、それとも徐々にフェードアウトして現実の海が再び目の前に広がるのか。

そもそもなぜ「歩いている」という時間を想像してしまうのか。 画面の縦が横の長さにくらべ極端に短い(70 x 180cm)のがこの絵の特徴だが、このことがこの絵に与える印象を作っていることは容易に想像できる。そもそも通常の比率ではないキャンバスは、当然青木によって 意図的に決められたはずだ。それでは画面 のたたえる時間、つまりイメージの中の海人の「歩くというイメージ」の持続もこの画面の形に由来するのか。この《海の幸》の画面の比率を映 画のワイドスクリーンのようだと友人は言った。ここでの結論の根本にあるのはこのひとつのキーワードだ。

リュミエール兄弟が 1895 年にシネマトグラフを発明して20 年。もちろん青木が映画からこ の作品の着想を得ているなどと言えばほとんど妄想かも知れないが、日本の青年が、絵画に映 画のような「動き」を求めること自体は不思議なことでもない。この画面の、一瞬未完成にも 見える下書きの線や、下地が透けて見える塗りは、上の 1.→2.もしくは 2.→1.へ入れ替わる、まさに瞬間なのかもしれない。12 世紀の絵巻物が映画やアニメーションの先駆けだと言 えるなら、この時代の映像技術の先を行く効果を《海の幸》という絵画上で作り出したとしても、やはり不思議とは言えない。

映画はその内部に時間軸を含むが、絵画にはそれがない。絵画はその画面においてイメージ の入口(または出口)を示唆することで、見るものの内部にイメージを立ち上がらせる。見るものの内部に時間軸を構築する。その効果の枠組みこそが《海の幸》の成功であり、青木の天性の感覚なのかもしれない。

[7/24/2011]

パウル・クレー展 ― おわらないアトリエ

東京国立近代美術館
展覧会ホームページ

例年より早く梅雨入りした平日の午後、竹橋の国立近代美術館では世代を問わず多くの人がクレーの絵画に見入っていた。私が記憶するだけでも日本で開催されたクレー展には、1993年の大規模な回顧展『パウル・クレーの芸術』、2002年のクレーの「旅」をテーマにした『旅のシンフォニー パウル・クレー展』などがある。パウル・クレー(1879-1940)の何かロマン主義的な心情に働きかける作品に共感する日本人は少なくないだろう。クレーは生涯で9600点もの作品を残したが、そのどれもがいとおしい。さて、今回の『パウル・クレー展― おわらないアトリエ』は、クレーの制作プロセスに於ける独自の「技法」に焦点を当てた展覧会だ。

クレーはバウハウスで教鞭をとっていたこともあり、自分の作品の描線や色彩についてコンポーネントとして分析/意味付けをし、またそれを文章としても残している(例えば新潮社刊『造形思考』)。それは作家自身によって完結された作品論として重要な部分を占める。その一方で、実際にクレーがそのコンポーネントをどのように組み合わせどのような手順や手法で作品化を進めていたのかについて、美術史家の手によって検証されるようになったのは90年代以降のことになる。今回の展覧会は最新の「クレー研究」の成果であり、研究機関としての国立美術館の役割を考える上でも重要なことなのだ。クレーの死後50年以上経った90年代になって急に研究が進んだのは、おそらくひとり息子フェリックス・クレーが1990年に亡くなったからだと思う。親族が生きていると作品管理に感情的なものが関わることが多いからだ。

検証されたいくつかの「技法」で私が特に興味深く思ったのは、黒の油絵の具を塗った紙(つまりカーボン紙のようなものだろう)を、鉛筆などで描かれた「素描」と新たな紙との間に挟んで転写する「油彩転写」だ。転写された描線の上から水彩で色をのせて完成となる(図は『ホフマン風メルヘンの情景』)。多種多様な作品を生み出すクレーの中でも「油彩転写」を使ったシリーズ(300点以上あるらしい)は私のお気に入りなのだが、今までは迂闊にも版画に着彩をしたものだと思い込んでいた。

このような煩雑な制作方法をとる理由について、複数の版で色彩の効果を試したとの憶測もあるようだが、「油彩転写」が1919年以後に制作されていることから考えれば、つまり1914年のクレーの有名な言葉「...もう手を伸ばして色彩を追い求めることは無い。色彩は私を永遠に捉えた、私にはそれがわかる。この至福の時が意味するのは、私と色彩はひとつだということ。...」にあるように、「油彩転写」を始めた時点で既にクレーにとって色彩はあれこれと模索する必要が無いレベルにまで到達していたと考えてよいのではないか。むしろ発想の即興かつ自在な表現であるクレーの「素描」を、作品のレベルまで持ち上げるための昇華作業として「油彩転写」が行なわれたと捉えるべきだろう。「油彩転写」は決して気軽に複製を作るためのものではない(実際に手作業なのだ)。もとの描線の単純な写しでは線はいとも簡単に勢いを失ってしまう。より完成度の高い描線を求めて、素描を転写する段階で構図を調整したり線や形態などコンポーネントの取捨選択も行なう。「油彩転写」作品に於けるめくるめく線の快楽と即興性は、実は綿密な計算と熟慮を重ねた上での表現だということが今回初めて見えたのであった。

ちなみに、有名な「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある。」というのは『造形思考』(絶版)の中にある。

[6/11/2011]

特別展 写楽

東京国立博物館
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震災によって開始がほぼ1ヶ月延期された『特別展 写楽』。この規模の展覧会ともなれば日本人絵師「写楽」も海外からの作品を集めなければ成り立たないことを痛感する。もともと数が少ない上に、複数の版が存在する場合もほぼ例外なく海外のそれの方が保存状態が良い。東洲斎写楽は海外で見出されたartistなのだ。

写楽と言えば、あの有名な大首絵でデビューしてわずか10ヶ月で忽然と姿を消した「謎の絵師」ということになっている。実際には浮世絵研究の基本文献(『増補浮世絵類考』)に「写楽は阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛」という記述があるにも関わらずだ。まあ正直をいえば写楽はあまり自分の趣味ではないし謎解きにもあまり興味は無い。やはり浮世絵といえば歌麿だな...個人的には。

写楽にせよ歌麿にせよ版元蔦屋重三郎とは深い関わりがある。蔦重(蔦屋重三郎)が吉原で仕事を始め、出版の中心地である日本橋に進出し黄表紙や洒落本などで続々とヒットを飛ばしたのは、老中田沼意次が主導する商業経済の繁栄と自由を謳歌した町人文化の時代だ(1767年から1786年)。だが天明の大飢饉以降世直し的な機運が高まり意次は失脚。松平定信による寛政の改革(1787年から1793)により風紀取り締まりが進むと、1791年(寛政3年)蔦重は財産半減のお咎めを受ける。そもそも黄表紙や洒落本は支配者層にとってはよろしくない出版物なのだから致し方ない。

腕利きの出版人蔦重は寛政5年から6年と浮世絵の出版に取り組み、歌麿の代表作『当時全盛美人揃』や『婦人相学十躰』を世に送り出す。だがその矢先、寛政6年4月に吉原は火災で焼亡(ちなみに吉原は江戸期に23回焼失したという)しスポンサーを失った美人画の出版は中止に追い込まれる。そんな状況の同5月、江戸三座(歌舞伎)に取材した写楽の大判錦絵28図が出版されることになる。歌舞伎座の方も田沼バブル崩壊のあおりを受け興行権を持つ三座(本櫓)は財政難で、代わりの控櫓(本櫓の控えとして決められている)による開幕となる。なんとも時代は揺れ動いているのだが、蔦重はこれをチャンスと捉え攻めに出たのだろうと想像できる。

さて今回実際に写楽を見た感想としては、非常に「素人っぽい」絵師だということだろうか。これは決して作品としての価値を云々するものでは無いことは断らねばならないが、同時期に出版されたの勝川春英や歌川豊国の歌舞伎絵はまさにプロの仕事のクオリティーで仕上げられているのに対し、写楽のそれは豪快さが持つ魅力の反面やはり甘さも目立つ。浮世絵は絵師だけでなく刷り師と彫り師との共同作業なので、ある意味で力のある職人に助けられている点は否めないだろう。ましてや黒雲母摺り(雲母はキラキラするので「キラ」と読む)の豪華版だ。写楽の魅力を引き出した蔦重の企画勝ちだろう。写楽は鮮烈なデビューを遂げ一躍スターとなった。ところでこの豪華版の出版にかかる費用に対し、版元蔦屋としてはそれに見合うだけの利益を回収できたのだろうか。ここで写楽はこの大判大首絵の出版以降も仕事を続けているという点に注目する必要がある。

黒雲母摺りの版画28点を一気に出版するのは普通ではない。これらの版画を購入できる客層は当然限られる。正確にはわからないが採算度外視の企画だろう。だから次の企画で小サイズの廉価版をより広い購買層に売ってこそ商業的な成功と考えるのが普通だ。かくして第2弾ではコストを抑えた細判で雲母摺り無しでの出版となる。期待の写楽はここでも確かに奮闘しているし、前作からあまり間もないにも関わらず技術的な上達すら見られる。しかし小さい画面での全身像の描写となった時他のライバル絵師達との違いも見えにくくなってしまった。好き嫌いもあるから一概には言えないが、私からすればこの時点ですでに豊国の方に軍配を上げる。浮世絵師としてのプロ意識の差に、おそらく写楽も気付いていたはずだ。第3弾、第4弾と回を追うごとに実力の差は顕在化し、写楽の画面の持つ勢いは衰えていく。もちろん10ヶ月で140点余りの下絵制作は簡単なことではない。写楽が肉体的にも精神的にも疲弊したことを思うと可哀想な気がする。

絵の上手いアマチュア絵師斎藤十郎兵衛が、浮世絵師「写楽」として突如脚光を浴びた。能役者であった彼は「役者」に対して独自の眼差しを持ち、その役柄の抱える内面をも表現することができたのだと想像する。それは一般の歌舞伎ファンだけでなくプロの絵師をも驚かせたことだろう。しかしプロの絵師とは想像以上に過酷な職業であることに気付いた十郎兵衛は、次の舞台を待たずに絵筆を置き、その後は能役者として一生を終えたのだと思う。私としては一線のプロとして生涯を貫いた喜多川歌麿の方を評価するが、東洲斎写楽という特異な才能を見出し、こうして後世の私たちに残してくれた海外の識者達に敬意を表する気持ちは強い。

[5/7/2011]

ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー

東京オペラシティーアートギャラリー
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ホンマタカシ(1962年生)氏が『東京郊外 tokyo suburbia』で木村伊兵衛賞を受賞してはや10余年。大規模な巡回展『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』が開催されている。

1999年の受賞の後、都内のフォトサロンのような小さめの展示スペースでホンマ氏の写真展をみた。『東京郊外』という写真については、拭い去ったような子どもの表情について語られることが多いが、ニュータウンの住人である彼らも彼らが暮らす新築の一戸建て住宅も、その表面的な沈黙とは裏腹に圧倒的な情報量を内包していることの方にむしろ驚かされる。また写真集としての『東京郊外』は、小さい子ども向けの絵本で使われる「厚紙」に印刷・製本されており、視覚的な本の厚みと手に取った時に感じる重さ(見た目の割には軽かったりもする)、そして「tokyo suburbia」というコンテンツとの間でのアンバランスさが印象的だった。

写真集というのはつまり「本」の形式での写真のプレゼンテーション方法だ。例えば小説を読む時、私たちはページの末尾に到達する前に無意識に次のページをめくる準備を始める。ここでページは1枚区切りの紙ではなく、物語の連続性を保証し、物語を展開させる装置として働くことを前提としている。ところがこの『東京郊外 』では、硬直した「厚紙」のせいでページ繰りが不自由となり、その不自由さによってひとつの写真と次の写真との間に心理的な溝が生じ、それが大型カメラでシャッターを切るような「完結性」を想起させる。結果としてひと連なりの物語から切り離された「写真そのもの」が見えてくる一方で、その切り離されたはずの写真も、写真集という本として背表紙を介して連なることから免れられない。『東京郊外 tokyo suburbia』とはそういうアンビバレンスな関係性を保持した集合体として機能している居住区のことであり、同時に写真集の体裁に置いてもそれを意識させる作りになっているという見方もできるだろう。彼にとっては写真という空間と写真集という空間は同等のメディア的意味を持つと言える。

前置きが長くなったが、今回の展覧会『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』では、例えば《Tokyou and My Daughter》や《Widows》のようなスナップショット的な写真から、《M》のような網点スクリーンプリントをインスタレーションしたもの、《Together》では「ニューカラー」風な写真と文字情報をひとつに額装し、また《Trails》では大型インクジェットプリンターで出力された絵画風な展示を試み、さらには《Short Hope》は静止画ですらないビデオスケッチと、ほとんど別の作家の作品かと思うほど様々な表現方法を駆使して写真を展示している。

写真というのはどこまでが写真なのか。ネガに収められた情報か、トリミングやサイズや色合いを含めたプリントか、それとも視る者の視覚体験までも含んだ総体か。答えはここでははっきりとしている訳だが、それはホンマ氏が広告媒体で写真を撮り続けて来たことと無関係ではない。広告写真は素材として売られれば、それがどのように切り取られようが、自分の意図とは違うコピーを重ねられようが文句は言えない立場にある。それも写真なのだ。これは「写真は〈真を写す〉か」という議論以前の問題であるのは明らかで、「写真をどのように伝えるか」だけが写真の真実と関わるのではなかろうか。だからこそ写真家であるホンマ氏にとって「写真」と「写真を伝える空間/媒体」(この場合は美術館での展示)は等価でなければ意味がないのだ。

「写真の真実と関わる」こと。無論それは「写真が〈真を写す〉」ことは全く別のことである。ホンマ氏は「写真」を問うているのだ。一環して問い続けていると言ってもいい。写真をメディアとして使用する美術家が増えた分、ホンマ氏の写真家としての骨太さが際立つ展覧会だった。

追記 写真とは世界を見る方法のひとつだと思う。美術もそうだろう。だからこそ「写真とは何か」とか「美術(芸術)とは何か」を問い続けることには意味がある。だが「写真は芸術か?」という交錯した問いの立て方はすでに間違っている気がするし「写真は写真だ」という答えは何も考えていないことと同じことだと思う。

[4/24/2011]

レンブラント 光の探求/闇の誘惑

国立西洋美術館
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2002年に京都国立博物館で行なわれた『大レンブラント展』のカタログを書棚から発掘。なんとあのフェルメールの《地理学者》の所蔵先のシュテーデル美術館との共催だったことを確認し納得。レンブラントの絵画を初期から晩年まで通覧する贅沢な展覧会だったことを思い出す。言うまでもなくレンブラント・ファン・レイン(1606~1669)は17世紀オランダを代表する巨匠中の巨匠だ。代表作《夜警》(1642)などスケールの大きい肖像画家として知られるが、一方で銅版画制作にも力を入れていた。今回、国立西洋美術館で開催されている『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』は、その銅版画を中心とした展覧会だ。

「版画」作品をどのように見ていくかというのは実はなかなか難しい。複製メディアとしての制約と作品として成立する過程とが切り離しがたいからだ。特に今回のように規模の大きい版画展だと純粋に(漫然と?)画面だけを楽しむにも限度がある。何か取っ掛かりを探さねばと思っていると、「和紙」と「洋紙」に刷られた版画が対比的に並んでいることに気付く。今回の展示で大事なテーマでもある。

キャプションには「和紙」とのみ記されているが、正確に言うと「雁皮紙」という紙だ。雁皮という植物の樹皮の繊維を漉いて作る(追記に「雁皮紙を漉く」映像をリンクしたのでご覧ください↓)。日本画ではよく模写をするために使われる。薄くトレーシングペーパーのように半透明なので写本を上げ写しするのが容易だからだ。紙自体に光沢感がありしかも支持体として繊細な見た目以上に強靭でもある。現在でも雁皮紙の質感を好む版画家は多く(私も学生の頃一度リトグラフを刷ったことがある)、一般的な版画紙に比べ紙の表面でしっかりとインクをとどめるため発色が良い。雁皮紙特有の色味は美しいし、それこそ所有しているだけで嬉しくなるような魅力的な紙でもある。ただし高価。東インド会社が日本から買い付けレンブラントがその紙を好んだというのは、なんとなく誇り高い気もする。日本人として(??)

絵を描くことと版画を制作することとでは技術的に全く異なるので、世の中には版画をする画家としない画家がいる。例えばデューラーはメディア戦略的に版画を用いた画家だが、まあ、彼の場合は性格的にもエングレーヴィングのような版画の作業に向いていたのだろうと思う。レンブラントはと言えば、少し穿ったものの見方をすれば必要に迫られていたという部分もあると思う。彼は売れっ子肖像画家としてかなり稼いでいたはずだが、同時に相当な浪費家ありで、また家政婦(兼乳母)から婚約不履行で訴えられたりもする男なのだ。画商業も投機も失敗するし財政は破綻する。版画は当然ながら絵よりも売りやすい。高価な和紙刷りと普及版としての洋紙刷りとを分けることでより広い購買層にアピールできる。

銅版画は綿密な計画と準備を経て完成像を作ってから彫り進んでいくようなイメージがある。レンブラントはドライポイント(銅版画の豆知識みたいなページ)という技法を多用するのだが、これはニードルで引っ掻くように彫るため、デッサンをするような版面上の素早い画面構築が可能だ。またドライポイントでは彫る時に線に「まくれ」が出るのが特徴で、この「まくれ」が刷った時に独特の絵画的なニュアンスを作る。画家レンブラントとしてはこの技法は好都合だったようだ。問題としてはこの「まくれ」が版を重ねると摩耗しやすいことにある。レンブラントはこの欠点を逆手にとって、摩耗した版に変更を加え、あらたなステートとして、つまり別の版画としてそれを売った。ネガティブな側面としてではなく、要するに彼は「美術」に取り付かれた人間なのだ。晩年の不遇にもかかわらず絵画でも版画でも傑作を輩出するのは驚異的でもある。

レンブラントの版画の原版は多くが現存することは知られている。彼の死後も多くが他の人の手で刷られ、それらは贋作とは言えないまでも区別する必要はあり、またレンブラント自身のステートごとの制作年を特定するためにも、最近では紙の「透かし」(ウォーターマーク)を研究したりもするらしい。このレンブラント展では久しぶりに美術館が研究機関でもあることを実感できる。見る方としては、できればもう少し作品どうしの展示間隔を狭めて、ステートや用紙の違いを見比べられるようにして欲しくはある。

[4/8/2011]

MOTアニュアル Nearest Faraway 世界の深さのはかり方

東京都現代美術館
展覧会ホームページ

地震があって海外からいくつかのメールが来た。日本を脱出するなら受け入れてくれるという優しい(?)言葉をかけてもらったりもした。海外ではどんな報道がされているのか、逆に少し不安になる。もっとも仮に国外退去となったとしても自分には航空券など買えないだろう。スーパーで「かつてそこにあった」だろう白米が積まれるべき棚を前にしてそれを確信する。でもまあ、自分は地震の数日前に米もトイレットペーパーも補充したばかりなのだ。

インターネットが普及した昨今、世界を繋ぐ時間と空間が飛躍的に狭まったと言われる。確かにそうだ。阪神淡路の震災時には私自身メールアドレスすら持っていなかった。日本から飛行機で10時間以上も離れたロンドンでテレビを前にただ狼狽えるばかりであった。しかし現に今このような形でロンドンやシドニーや香港の友人からメールを受け取ることで、かえって自分は彼らから遠くはなれた場所にいることに気付く。世界の途方もない広さを痛感するのだ。今度はFacebookから友達リクエストが届く。こういう不安な状況ならではのことだろう。私もFacebookで知人を捜してみた。でも結局私からは誰にもリクエストを出せずにいる。

世界の深さとは何だろうか。深さのはかり方とは? 高さならわかる。今は全く報道されない東京スカイツリーは現在634mだという。高さは眼に見えるのだ。

今回東京都現代美術館で開催されている『Nearest Faraway 世界の深さのはかり方』には学生時代からの友人が出展している。実は去年20年ぶりに個展の会場で再会を果たした。思い起こせば学生時代には展覧会の搬入を手伝ったこともある...。当時から彼女は「糸」を張っていた。その作品について、その時何を話したのかはよく憶えていない。おそらくそれをあまり語りたくないから、所属する科が違う私と友人に声がかかったのだと思う。

深さというのは、それが海底にせよ地底にせよ、この地平からは暗くてよく見えないものだ。だからこそ人が「深さをはかる」ことは研ぎ澄ました感覚だけが頼りの長く孤独な闘いと言えよう。底はともすれば音も無い静謐な世界にも思える。だが実際は計り知れないエネルギーを抱えながらの一瞬の沈黙状態かも知れない。眼に見えないということ。

彼女の作品も昔はこうではなかったような気がする。私の「眼」が憶えている限り(本人には否定されるかもしれない)、それは空間の中の自分の位置関係とか、世界と自分との距離感のようなもので、糸の張力を使ってそれを模索していたかのように見えた。根拠としてはそこに「中心」があったから。それはその年頃の学生ならではのメンタリティーというばかりはでなく、その時代の日本が抱えていた思考なり美術の傾向だったような気もする。

去年の夏、20年ぶりに見た彼女の作品には大きな変化があった。少なくとも私はそのように感じた。自分の目の前に開いた穴に静かに糸を垂らし、眼に見えない底の形状を細心の注意を払って感受し記述する、そんな作品になっていた。自分の無意識を掘り下げても結局何にも行き当たらない。世界の深さこそをはかるべきなのだ。いろいろな意味でタイムリーな企画の展覧会だった。

[3/28/2011]

シュテーデル美術館所蔵
フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展

Bunkamura ザ・ミュージアム
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フランクフルトの中心から少し離れ、マイン川を渡った先には美術館・博物館が並ぶ地区がある。シュテーデル美術館(私も一度訪れたことがある)は、中世から現代と幅広いコレクションの謙虚な親密さが見る者との程よい距離感を保ち、極めて居心地のよい空間だったとの記憶がある。それは土曜の昼時...。外の蚤の市が地元の人で賑わっているのとは対照的で、美術館の中は人影もまばら。オランダ絵画部門はことのほか閑散としているばかりか監視人すらいない展示室で、他の作品と全く分け隔てなしに並んでいるフェルメールの《地理学者》に対面。なんとも贅沢で至福の時...。 

さて、ここ数年の日本でのフェルメールブームに一番驚いているのではフェルメール自身ではなかろうか、とさえ思ってしまう。とにもかくにもこのブームはフェルメールだけではなく日本では目にする機会の少ない「17世紀オランダ絵画」を引き連れてやって来る。もちろん《地理学者》はフェルメール作品のなかでも「フェルメールらしさ」に溢れた質の高い一品である。しかしながら宗教改革後のここオランダという小国、そして海外貿易による繁栄がもたらした市民による諸都市に多くの画家が集い、既存の美術の流れとは全く異なったスタイルの新しい美術を続々と世に送り出したという事実にこそ驚くべきであろう。フェルメールはその傑出した才能のひとりにすぎない。

プロテスタントの17世紀オランダでは、聖像(イコン)や祭壇画の代わりに肖像画、風俗画、風景画、静物画が生まれたという史実は知られているが、少なくてもここ数年日本で開催されたフェルメール展ではこれらのジャンルを包括的に見るような展示はされていなかった。今回シュテーデル美術館所蔵の『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』では、ヤン・ステーン、フランス・ハルス、レンブラント、ヤン・ファン・ホイエン、ロイスダール、ヤン・ブリューゲル(これらの名前すらほんの一部にすぎない)、そしてフェルメールとが同じ時期にオランダという国で活躍していたという、わくわくするような事実を目の当りにする。その意味でこの展覧会は非常に意義深い。

ところで、フランクフルトの裕福な商人で銀行家のヨハン・フリードリヒ・シュテーデルは、遺言としてコレクションをもとにした美術館設立に夢を託す。それが現在のシュテーデル美術館だ。美術館という制度はまさに国家の成立に関わる19世紀的産物なのだが、彼が買い集めたコレクションの多くは同時代のドイツ美術と17世紀オランダ・フランドル絵画であったという事実からは、実に注目に値する側面が見え隠れする。

シュテーデル(1728~1816)の生きた18~19世紀初めのドイツは、三十年戦争(1618~1648)とペストの流行により国土は荒廃し、分裂した小国どうしが拮抗する前近代状態。革命を成し遂げたフランスや産業に於いて一歩抜きん出たイギリス等の国々を身辺に抱えながら、未だ国家としての体裁を見出せない。そんな焦りの中で、ナポレオンの侵攻(1806年)とともに市民の間に統一ドイツ国家を目指すナショナリズムが蜂起する。自由都市フランクフルトに於いて市民文化を享受し商人としても財を築いたシュテーデルが理想と掲げたもの、それが200年近くも前に同じプロテスタント(宗派の違いこそあれ)の市民が担った「黄金期オランダ文化」だった訳だ。大国スペインを打ち破る小国オランダの姿を未だ見ぬドイツ国家に投影したのかもしれない。

ここから先は多少の妄想が入る...。この時期ドレスデンなどの都市でも市民は似たようなメンタリティを持っていた。ならばその後活躍するドイツロマン主義の画家も、同じような眼でオランダ絵画に向かっていた一時期があっただろうことが想像できる。ここで私が想定しているのはオランダの風景画家ロイスダール(1628~1682)→ドイツロマン主義の風景画家C.D.フリードリヒ(1774~1840)という線だ。ゲーテ(1749~1832)はフランクフルト市民でシュテーデルとは接点がある。ゲーテとフリードリヒにも若干ながら接点がある。あくまでももその程度には都市間での情報の行き来がある、ということだけにすぎないが。ドレスデンの美術館はザクセン公の系譜で市民のメンタリティとは程遠い所あるが故に、私には今まで見えていなかった側面だ。まあともかくもフェルメールから始まってこんな遠いところまで来てしまった...。

[3/26/2011]

シュルレアリスム展
ーパリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による

国立新美術館
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国立新美術館も含め東京近辺の美術館では、計画停電等に伴い一時的に休館もしくは開館時間の短縮の措置をとっているところも多いようです。こんな時に「美術」?と思われる方もいらっしゃると思いますが、「美術」には多くの困難な時期を乗り越えて来た知恵があります。


イヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスが書いた『アンフォルムー無形なものの辞典』(月曜社)が先頃出版された。今から15年も前の1996年にポンピドゥーセンターで開催された展覧会のカタログとして執筆されたものである。このタイムラグは日本の翻訳本の出版事情としてはよくある話ではある。

ともかく、そのパリで行なわれた展覧会を簡単に言えば、現代美術をバタイユを軸に切り直そうという主旨であることがわかる。「バタイユを軸に」というのは、エドアール・マネのあらゆる作品に「形式も内容も」無化する「横滑り」(クラウスらからすればグリンバーグを脱構築ということか?)を見たバタイユの「眼球」を通して現代美術を仕切り直すことだ。それが何よりも、アンドレ・ブルトンが主催するシュルレアリスムという運動(1924~1966、これはこの20世紀美術の変化のスピードからすると異様に長い、しかも戦後亡命先のアメリカからフランスに戻るという)から離反するバタイユを、アメリカ戦後美術へスムーズに線を引くための分岐装置として作動させたいというボアとクラウスの戦略なのだろう思う。おそらくバタイユはシュルレアリスムの持つある種の幸福な時間が、新たな破滅に向かいつつあることをいち早く感受したひとりであると言えよう。幸福な時は短い。

現在、国立新美術館でポンピドゥーセンター所蔵の『シュルレアリスム展』が開催されている。これはかつて無い規模のシュルレアリズム展であり、まさに超教科書級のシュルレアリズム作品群が所狭しと並んでいる。

ところで、シュルレアリスムとは何か、正確に言えば「美術に於いて」シュルレアリスムとは何かを理解するのは意外に難しい。周知のようにアンドレ・ブルトンの言うところの「シュルレアリスム」が定義として依存するのはフロイト的な「無意識」である。その具体的な表現方法としては、一方で手法としての「オートマティスム」(自動筆記)の使用、もう一方で無意識の対象としての「夢」の具現化だ。ブルトンは詩人なので言語的にこれらシュルレアリスム的表現(これはかなり感覚的な判断で行なわれる)を模索する。ところがこと美術に於いて(つまり視覚芸術という意味で)、仮に前者の代表をミロ、後者の代表をダリとしてみた時、両者の表現法はあまりにもかけ離れていて、共通性を見いだし難いということがシュルレアリスム絵画を考える上での解りにくさにつながっているような気がする(例えばキュビズムならばその表現方法が共通するのが前提だろう)。もちろんそれはそれぞれの画家のシュルレアリスムに対する解釈の問題であるが、見る側には混乱をきたす部分でもある。

しばし作品に見入っていたのだが、ふと周りを見回すと、通常の展覧会よりも圧倒的に若者が多くしかも若いカップルの占める割合が多いことに気付く。画面を指差し、何やら楽しそうにひそひそと語り合う。あるいは映画『アンダルシアの犬』のあの場面では、申し合わせたかのように皆が顔を見合わせ、無言の絶叫(?)をするのだ。そうそう、その光景にこそブルトンがほくそ笑むだろう。シュルレアリスムに求めたのは、このとりとめもなく青臭い(決して悪い意味で言うのではなく)、過ぎ去りつつあるある幸福な時間のような気がするのだ。人生の一時期にだけ許される特権のようなもの。だからこそ多くの若い芸術家がここに集い、そして程無く離れて行った。ジャコメッティになる前のジャコメッティ、ポロックになる前のポロックも、エリ・ロタールの《ラ・ヴィレットの屠殺場》でさえも興味深い。

ダダが第1次大戦の直接の抵抗から生まれた運動であるのの対し、1924年に宣言されるシュルレアリスムはそれよりやや後の、第2次大戦に至る前までの、ある意味で幸せな時代の申し子とも言える。誰もが青春を享受する権利がある。それがシュルレアリスムの核であり、現代でも多くの若者がシュルレアリスムに共感を持つ理由でもあろう。だからシュルレアリスムをあまり真剣に考えすぎてはいけない...というのが今回の私の結論だろうか。

この夏、薔薇は青い。森、それはガラスである。緑の衣におおわれた大地も、私には幽霊ほどのかすかな印象しか与えない。生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。

アンドレ・ブルトン

[3/13/2011]

展覧会めぐり日記 01

 

 

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