2015

エステティック・ライフ - オートマチック展によせて

中根 秀夫 Hideo Nakane

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より健全なコラージュは自動装置(オートマチック)を微調整し、昏睡状態
のシュルレアリストたちを誉めそやす/…/巨大な騒ぎは続いて起こる/…

ピーター・スティックランド 『Automatic』より*

 

全ては1冊の本から始まる。アミカン・トーレンがローマ滞在中に描いた、どこか欲望を喚起するオートマチック・ドローイングは、ピーター・スティックランドの手に引き渡された。オウィディウスの『変身物語』巻 15「ジュリアス・シーザーの神化」からシーザーの暗殺を予兆(portents) するいくつかのセンテンスが抽出され、それはまたオートマチックに分 節化されると、オートマチックにドローイングを欲望しては渾然一体となり、遂にはこの世界を予兆する70 章の新たなテキストとして再生産される。『ROME automatic』はかくの如く存在する。

本という形式はオートマチックを欲望する。本を手に取るという行為 はまさにオートマチックであり、人はオートマチックにページを繰るだろう。ページはまた次のページへとオートマチックに受け渡され、オートマチックに物語を発生させるだろう。オートマチックな空間に立ち上がった物語は、また受け手によってオートマチックに欲望され、新たな物語としてオートマチックに読み替えられねばならない。

『ROME automatic』は、展覧会の企画者のひとり平田星司によって日本語空間に解放される。時空は歪みながら古代ローマから英国を経て日本に到達するが、またそれは同じ筋道を遡っていく行為でもある。全て はオートマチック自身の欲望なのだ。「エステティック・ライフ」とは、1996 年にロンドンで開催された『The pleasure of aesthetic life』展と、それを企画したアミカン・トーレンに捧げるオマージュである。そして 全てはオートマチックが仕掛けた欲望であり、そして罠でもある。

巨大な騒ぎは続いて起こる…。ウエダ リクオは風を奏でる装置として、オートマチックにドローイングを生成するシステムを構築する。詩は生まれ言葉は生まれる。小林潔史は手のひらに自身の体温と地球の重さを感じる。だがそれが真にオートマチックを纏うのは、手のひらに自らの 死をそっとのせてからだろう。言葉は失われる。

鈴木智惠の眼は自らの皮膚である服を捉える。服を縫う眼とそれを板上にトレースする眼はオートマチックに等価である。平田星司は支持体とメディウム(皮膜/皮膚)の関係あるいは無関係を宙吊りにし視覚化させる。プロセスは常態的にオートマチックである。中根秀夫は観る者の記憶に交感する視覚装置を調整する。水滴はオートマチックに流れ落ち、意識の中で視覚は失われる。

 

 

脚注

より健全なコラージュは自動装置(オートマチック)を微調整し、昏睡状態のシュルレアリストたちを誉めそやす。新鮮な遊びは、取っ散らかっては押し退けあうブンブンとうるさい奴らを踏み越える。愚かな見解は理論的に折り畳まれる。

幸福な作品たちは正統な凡庸さの勝者を機械的に称賛し、不器用に書かれた宣誓供述書をもって、自惚れにとどめを刺す無口な調停をさっさと整理してしまう。

断固たる口調で書かれた招待状が、貞淑なシュルレアリストたちのいる高潔な連盟に発送される。バイク便の運転手は無用な風船を膨れ上がらせ、視覚がバラけた先を火花を散らすコラージュの数々に括り付けようと主張する。

巨大な騒ぎは続いて起こる。くだらない含蓄だらけのチンピラまがいの態度を拝借し、視覚的な有益性が真理を放逐してしまう。頭の切れる泥棒は、自分をさらけ出すにはいまだ内気すぎる人々の裏をかく。

リタイヤのせまる形而上学者たちは一般原則を10倍に増やし、私たちを絵画の内にとどめて支配するように努める。新たな代役たちは、高尚な芸術作品の埃を払う思慮深いストライキ連中の心を揺さぶる。

Peter Stickland “Automatic" より (訳 平田星司・中根秀夫)
  • エステティック・ライフ - オートマチック展 ホームページ
  • エステティック・ライフ - オートマチック展 公式ブックレット(2.9MB, pdf)

 

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